バイマンスリー/ ギャラリー・アドベンチャー
1月
13日水曜日

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 #1 困惑アート

 

 はじめて、その不思議な絵をみたときの記憶がある。中学生だった私は、バスと電車と地下鉄を乗り継いで、その場所を訪れた。美術館。20世紀美術の巨匠――パブロ・ピカソの展覧会をみるために。それは今までみたこともない絵だった。みたこともない画面の構成、みたこともない色の塗り方、奇妙な人間のかたち。私は、そのとき、絵の意味など考えなかった。学校で教わった絵の描き方とはまったく違うその表現を理解するために、私は助走をつけて何かハードルのようなものを越える必要がなかった。作品の力が、向こうから私をつかまえて引き寄せたのだ。25年前の出来事である。

 美術の力に引き寄せられるように、私は画廊でアシスタントの仕事をはじめることになった。人は画廊の仕事を優雅な職業のように想像するだろうか? あるいは、陰謀が渦巻き大金が飛び交い海千山千の悪徳画商が罠を仕掛けて待ちかまえる落とし穴? もちろん、そのような画廊は存在する。けれど、現実の画廊のほとんどはそれほど極端なところではない。たとえば、あまり客の来ない平日の午後、昼食後の最初の仕事は襲い来る睡魔との闘いだったりすることもあるのだ。
 そんな穏やかなとある昼下がり、ひとりの中年男性が静かに画廊のドアを開けた。

「これは何をあらわしているんでしょうか?」
 そのスーツ姿の男は左手でひとつの絵を指し示してこう言った。眠気もふっとぶ先制攻撃だ。今、ドアを開けたばかりなのにいきなりである。
「は? 何、と申されましても……」
 私は困惑顔になっていたに違いない。その男は、私の表情を見てこんな年若い女になにがわかろうかとでも言うように、私の答えを待たずに自ら答えて曰く。
「あ、これ滝ですね、滝」
 しかし、男が「滝」だと主張するのは「ただの線のあつまり」なのである。白い紙に墨でただひたすら縦の線が流れるように引かれているのがその絵のすべてであった。確かに縦に流れてはいる、いるが、だからといってそれは滝ではない。
「うっ」
 私は声を失って、多分口元がただぱくぱくと動いていただけではなかっただろうか? 酸素が必要だ。もしかしたらカルシウムも必要になるかもしれない。しかし、たたみかけるように男は今度は隣の絵を指さして叫んだ。
「こっちは人物ですね、人物」
 またしても「人物」と主張されたそれは「ただの線が偶然かたまってできた面」なのである。
「なんて強引な目だろう!」
 私は感嘆の気持ちすら覚えたものだ。一瞬だけど。

 睡魔は完璧に撃退された。私の目の前に「滝だ、人物だ」と言った男性客が うんうん、とうなずいて立っている。私にはその姿が立ち向かうべき巨大ななにものかに見えた。もちろん、男が私の敵だというのではない、ただ、男が信じて疑わない美術へのアプローチの方法が時に私の宿敵となるのである。私は決然として言い放つ。
「違います。それは滝ではないし、これも人物ではありません」
 滝ではないし、流しそうめんでもないし、テーブルからこぼれ落ちるスパゲティでもない。かと言って夏の行水あとの女の乱れ髪でもなければ、ネコに引っかかれた傷でもない。それはなにか現実の「縦にながれるもの」の写生ではないのだ。狐につままれたような表情がみえる。

「じゃ、何?」
「線です」
「線なのは見ればわかるよ」
「だから見たまんまなんです」
「ただの線?」
「そう、ただの線」
「……」
「……」
「ただの線になんの意味があるの」
「具体的な物語性はありません」
「じゃ、柄?」
「柄じゃありません(柄って何よ、柄って)」
「……わからんなあ 」

 結局、その中年男性は首をひねりひねり入ってきた時と同じように静かに画廊を去っていったのであった。ああ、これでまた客をひとり失ったか……。それは画廊に勤めはじめた最初の年のできごとだった。しかし、登場人物と背景を変えて、それは何度となく繰り返されることになる。

 美術鑑賞をある種の知的な趣味だととらえている人は多い。なごみつつ、知的な満足感をも味わう、というわけだ。せっかく知的満足感(のようなもの)を味わうために画廊に足を運んだのに、そこにあるのはわけのわからないただの線だったり、面だったり、どっかで拾ってきたようなゴミのようなものだったりした場合、その困惑はきれいに二種類にわかれる。

「私は頭が悪いから理解できない」という自分を卑下するようなタイプと「あんたは理解できない私を馬鹿だと思っているんだろう」と逆切れして攻撃してくるタイプである。
 前者の人に私は「最初は誰だってとまどうことは多いんです。でも……」という調子でちょっとずつ作品を理解してもらうヒントのようなものを小出しにして誘導して最終的にはマインドコントロールを……出来れば楽なんだが、たいていは上記のような首ひねりで終わってしまう。せめてその人のその後の人生から現代美術が閉め出されてしまわないよう祈るばかりである。しかし、お祈りが私の仕事ではないので、いつかその人に再び現代美術との出会いがあるように、会話の中にちょっとしたヒントをちりばめてゆくことも忘れてはならないのである。それは、あちこちにそっと隠されたイースターの卵みたいなものかもしれない。願わくば腐る前に見つけてほしいものだが……。

 しかし、後者の場合、圧倒的に男性客が多いのだが、ことは美術の理解ではなく、オノレの自尊心の問題にすりかわってくるのだからややこしい。

 とある現代美術の展覧会で、私はひとりの老人に出会った。老人はひたすらに憤慨し、片手のステッキを振り回して叫んでいた。
「こんなのは絵じゃないぞ! 断じてちがう!」
 そのステッキで周りの人間をなぎ倒さんばかりの勢いであった。「こんなの」に被害でもあったら、それこそとりかえしがつかん。関係者として会場にいた私は、救いを求めてきた受付の若い女の子をかばって老人と対峙した。
「お客様、危ないですから、その棒をふりまわすのをやめてください。具象絵画ではありませんが、これも絵なんですから」
 身も蓋もない言い方だったが、とっさのことだし、ほかに言いようはなかった。
「おまえなんかじゃ話がわからん。責任者を出せ」
 はいはいはい。わかりましたとも。そんじゃ、もっと年期の入った画商さんに説得してもらいましょうかねぇ、と私はたまたま通りがかった50歳くらいの業界の大先輩に声をかけた。
「こちらのお客様が、ここの作品は絵画ではない、とおっしゃられまして」
「あ〜、でもこれも絵なんですよね」
 やっぱり身も蓋もないのであった。こうなってくるとやばい。これじゃあまるで、私たちはこの土地には戦国時代の武将の霊がとりついている、と主張する霊能力者みたいじゃないの。私にはそれがわかる(でも周りの人には見えやしない)。って感じか。
 その老人はまるでいかがわしい霊能力者たちに立ち向かうどこかの科学者のように目の前の作品の存在を否定することばを叫び続けた。
「悪魔よ去れ!」
 祈祷するかのような老人の叫びがその展覧会場にこだました。

 その騒ぎがどのように収束したかというと、老人の憤慨に耐えかねた若くてかわいらしい受付嬢が流した一粒の涙ゆえであった。
「な、なにも泣かずとも……」
 乙女の涙の効力は絶大なのだろうか? ご老体は戦意を喪失してあっさり会場を立ち去ったのである。霊能力者の面々もほっと胸をなで下ろす。しかし、これではなんの解決にもなっとらんがな。ただ老人の心に不愉快な思い出を残しただけである。私の心は少し痛んだ。

 現代美術作品を見るにはまずは慣れである。それからちょっとしたコツと訓練はいる。ほとんどの人は物語性と技術論を抜きにして美術を見る経験を持たない。そこのところをとりあえず除けて作品を見ることがスタートラインだ。
 真っ白い壁に囲まれた部屋。高い天井。現代美術の画廊は応接セットもなく、ただ作品をみるためだけに作られた無機質な空間だ。この空間に足を踏み入れるだけでも、時に人は勇気をふるいおこさねばならないようだ。勇気をふるいおこして踏み入れた途端に、目の前にわけのわからない作品が並んでいるとしたら……? 実はそこからアートをめぐる冒険が始まるのだ。

 現代美術の不可解さを前にしたときの人々の戸惑い。そしてその業界に蠢く摩訶不思議な人々。それらを語ることで現代美術の楽しさの片鱗をお伝えする事が出来れば幸いだ。
 これは現代美術専門画廊を舞台につづる奇想天外な人間たちの10年にわたる観察記録である。

 
 
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