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バイマンスリー/
ギャラリー・アドベンチャー ■6月9日水曜日 |
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#11 6月の庭から
6月はじめのこの季節。私はたっぷりと朝食でエネルギーを充填してから、昼食をはさんで夕方までの半日近くを庭で過ごす。 40年ほど前に分譲されたこのあたりの住宅は、地方都市のまたはずれに位置することもあって一軒の敷地が比較的広くとられている。敷地面積はまわりの家とさほど変わらないが、圧倒的に緑に溢れている家――それが私の家だ。 庭はさざんかの生け垣に覆われて外から伺うことはできないけれど、庭の隅にある杏の木は電信柱のてっぺんに届くほどの高さでこの庭のランドマークともいえる存在。春先には桃のような可愛らしい花を咲かせる我が家でも古株の木だ。 家屋は変形のL字型(Lの字の角を面取りしたような形)で、それに囲まれるようなかたちで庭がある。リビングのすぐ外には、アメリカ花水木がこの15年ほどで、2階の私の部屋のベランダに届くほどの高さに育った。春は薄ピンク色の花を咲かせ、新緑の季節には瑞々しい緑で私たちを愉しませ、なおかつ夏の陽差しを遮り、秋には紅葉してまた美しく、初冬にはすっかり葉を落として陽をさえぎることがない。 建物を囲むようにして庭に続く場所は幅1メートルくらいのレンガの段が付けられていて、そこにはテラコッタの鉢が並ぶ。庭の中心は芝生で、まわりにいくつもの花壇が作られている。花壇と言っても、眺めてみると花の咲くこの季節でもこの庭のほとんどを占めるのは緑だ。芝生と生け垣や何本かの木々、そして種々のハーブ類の間から、花々はごく控えめにそのありかを示す。ベゴニアのような派手な色の花を一切排して、静かな色だけが庭のそこここにある。 月桂樹の木の下には2人がけの木のベンチがある。暖かな陽差しを求める季節には、そのベンチで時間を過ごすことが多い。6月の今は、杏の木の下のレンガを敷き詰めた一角に、鮮やかな色のテーブルクロスをかけたガーデン・テーブルと2脚の椅子を置いて日中の陽差しを避けてお茶を飲む。 愛情を込めて手入れされたささやかだが美しいこのイングリッシュ・ガーデンのすべては、私の母が作った。 私はこれまで庭仕事をしたことがほとんどなかった。夏の朝夕に水撒きと芝刈りをするくらいのものだ。母の庭の美しさだけを享受し、労働にはまったくと言っていいほど手を貸さない、ぐうたらな娘が私。代わりに、私の中学時代からの友人がガーデニングという共通の趣味でよく母を助けてくれた。画廊に勤めていた頃、朝食をとりながら庭を眺めると、母とその友人が早くも庭仕事に精を出していたりした。 その私が現在、母の入院をきっかけにガーデニング三昧の日々を送っている。とはいえ、にわかガーデナーにできることはガーデニングにおける単純労働に限られる。 たとえばそれは、我が家の敷地に面して続く裏の雑木林から風に吹かれて舞い込んでくる季節はずれの落ち葉拾いから始まる。花壇のあちこちに可愛らしい芽を出しているのが雑草なのかハーブのこぼれ種の発芽なのかの区別も付かない私は、メジャーな雑草だけをターゲットにしてそれを取り除き、枯れた花を摘み枯れ枝を払い(さすがに枯れているかどうかの判断ははかろうじてできる)、芝生を刈って水を撒く。 ガーデニングの中でも、とくに地味な作業だが、毎日それを繰り返しても決してすることがなくなる、ということはない。花々は日々成長し、雑草もまた日々成長し、雑木林からもまた日々落ち葉が飛んでくる。 5月には花壇の大部分をポピーが鮮やかに埋め尽くしていた。このポピーの花は小振りで、花びらも薄紙のように繊細で色も淡いものだったが、それが一斉に咲いたようすは、ほれぼれとしてしまう美しさだった。 花も終わり、それが実を結んだ数日前、私はそれらを全部引き抜き、種の部分から20センチくらいを花切り鋏でカットして束ねたものを数十個作った。このままポピーの種屋さんを開業できそうなくらいに完成度の高い収穫作業だと密かに自画自賛。しかし、ポピーの取り去られた跡地に何を植えるかという高度な問題はかねてより母を手助けしてくれた友人に託した。 友人は頼もしいことに、車を飛ばしてあちこちで我が家の庭に相応しいと思われる花の苗や新しい鉢に使う土などを素早く買い求めて、朝早くからガーデニングの助っ人として現れた。前日から、裏方である私が文字通り地をはいながら整然とさせた場所に、数々の可憐に咲く(あるいはいずれ咲くであろう)花の苗を抱えた友人が、まるでこの庭を舞台に例えるならば主演女優のように佇んでいる。 残念ながらまだ私はそれらの花の名前を知らない。凝り性の母や友人の愛する花々は一般人の私にはとても覚えられない聞いたことのない名前のものばかりだ。友人が花壇の空いた場所に試しに苗を配置し、さまざまな位置から花壇のデザインを検討している傍らで、私はただ地をはいながら雑草をちびちびと引き抜くのみ。 色とりどりの花の配置を考えるのは、キャンバスに絵の具を置いてゆく画家の精神に通じるところがある。その立体的な構成を考えるときは、彫刻家の視点もまた必要となるだろう。建築家やランドスケープ・アーティストの資質さえ要求される。欧米、特にイングリッシュ・ガーデンの本場であるイギリスで何十年もかけて築きあげられた素晴らしい庭の写真を眺めると、そこにはまた、アートのように「ただきれいなだけではない、何か」が存在していることにも気づかされる。 ガーデニングとアートは結構似ている。 「ガーデニングは理屈だけでは駄目なのよ」と我が家のガーデン監督たる母ならば言うであろう。「見る前に跳べ」と。だから監督不在のこの庭を私は日々はいずりまわる。 友人が新たな花の苗を植えてくれたその晩は、たいそう強く雨が降った。ひょろっとした茎の長いものもいくつかあったので、まだ根付いていないそれらの安否が気遣われて、真夜中ひとり傘をさして庭を巡回したりした。ああ、一体私は何をやっているんだろう? と思いながら、繊細な苗が倒れないように添え木を当てていたりしたものだ。庭仕事の良いところは、屁理屈言う前に体を動かさなければどうにもならない、という当たり前の事実を教えてくれることかもしれない。 庭に植えられる植物はそれぞれの種類によって高さが違う。そして花の咲く時期も違う。それらのことを頭に入れて、庭をデザインしていかなければならない。また木々は何年も何十年も後の姿まである程度予測しながら植え込まなくてはならない。「ねばならない」が多すぎて、素人ガーデナーの私の前方に続く道の、なんと遙かに遠くまで続くことよ。 そんな時はとりあえず一服して、庭の片隅の杏の木陰に置いたガーデンテーブルで熱いコーヒーなど飲みながら、本を読んだりして過ごす。涼しい木陰から日当たりのよい庭を眺めていると、とてもおだやかな気持ちになる。美術書特有のとっつきにくい文章も、緑の間を吹き抜けてくる涼しいそよ風の中では、自然に頭に入ってきたりするから不思議だ。 きっとある種の思索にはそれに相応しい環境というのがあるのだろう。もし、経済的に許されるならば、専用のガーデナーとコックを雇いたい。しかし、そんなことはまったく誰もお天道さまもそれ以前に私のお財布が許してくれないので、自作自演でゆくしかない。まずは野良着で汗を流し、作業が一段落したら、シャワーを浴びて着替えをして、お茶なぞいれて、今度は優雅で孤高のハイミスの役に早変わりというわけだ。忙しいったらない。 それでも美しいこの季節に我が家の庭を訪れてくれるお客さまのために、私は昼食と杏の木陰での午後のお茶を用意する。そこで私はこれまでは考えたこともなかったガーデニング作業から思い巡らしたアートの話などをする。「庭の構造は、時間と空間で複雑に織りなされていて、まるでインスタレーション作品みたいね」などと、とりとめのない話を。 庭を歩くと、足下からいろんなハーブの香りがたちのぼってくる。花切り鋏を手に、私は小さな花束をつくる。花の名前はまだ知らない。好きな花だけを集めて作った花束をテーブルに飾る。6月のある日。この美しさを贈ろう、この庭を作った母に。私自身に。そしてここにはいない誰かに。6月の庭から―― ■ |
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