バイマンスリー/ ギャラリー・アドベンチャー
8月
18日水曜日

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 #16 精霊はアーティストに微笑む

 

ひとりバルコニーに立って、私は天を振り仰いだ。黒々とした夜空に浮かぶのは16番目の月。その輝く青白い光の異様なまでの明るさは、どこか別の世界から届けられるもののような気がした。月の光は、裸足の指先から私を青く染めあげてゆく。木々を揺らす風もなく、森はくっきりと黒い輪郭で天と地の境界線を示していた。夜に鳴く獣の声も聞こえない。完全な静寂が山荘をとりまいていた。

その場所からは隣家の明かりも見えない。一番近くの建物まで何キロも離れているのだ。鬱蒼とした木立によって、山すそに広がるはずの街の明かりもここには届かない。ただ、青い月の輝きだけが恐ろしいほどに辺りを煌々と照らしている。

私は、あとずさりしながら室内に戻った。外の静けさとは打って変わって、そこでは賑やかな宴席が繰り広げられていた。酒宴のメンバーは山荘の主であるアーティストのK夫妻、同じくアーティストのM、T、Nと画廊のボス、そして私。久しぶりに集まるということもあって、互いの近況報告などに花が咲き、誰もがすっかりくつろいでいた。

繰り返し傾けられるワインボトルや一升瓶が次々と空になる頃、いつしか会話は不可思議な方向へと流れて行った。それは、その夜の青い月の光のせいだったのかもしれない。

「僕はね、妖精に会ったよ」

最初にその話を始めたのは、彫刻家のTだったように思う。それはイギリスにある小さな島での出来事だった。その島にもかつては小さな村があった。そこに住む者はもう誰もいないが、今でも釣り客などが訪れるため日に数便の連絡船がその島の小さな港を出入りする。当時、イギリスに住んでいた彼は、いろいろな場所を旅して歩いたが、これはそんなたくさんの旅の途中の出来事である。

「その島は、周囲が何キロかの小さな島で、島を縦断するように島民が使っていた道が続いているんだ。そこはきっと漁師の村だったと思う。僕は、崩れかけた民家や石垣が所々に残るその道を歩いて、島の最南端にたどり着いた。そこで村の墓地を見つけた」

傾いたり倒れたりしていたそれらの墓標の十字架は、彼によればケルトの伝統を色濃く感じさせる古いデザインであったそうだ。誰も訪れる者のいないその墓地の隣に、小さな教会がひっそりと建っていた。彼はその教会へ向かった。

「もうどのくらい長い間放置されていたんだろうか。でも、その教会はまだ建物の形態を残していたよ。入り口のドアには鍵もかけられていなかったので、僕は中に入ってみた。本当に小さな教会だった。建物の天井近くの窓から、外の光が入ってきたので、中は暗くはなかった。祭壇の後も残っていたし、そんなに荒れ果てた雰囲気もない。イヤな感じではなかったんだ」

かつて人々が祈りをささげたその場所に、Tは立っていた。この村に住んだ女たちは、漁に出る夫や父親の無事をこの場所で神に祈ったのだろうか? 残された祭壇には今はもうキリスト像も置かれてはいない。Tがそんなあれこれに思いを馳せていたその時――。

「何かが、ものすごい勢いで後ろから僕の肩に突き当たってきたんだ」

不意を突かれてTは思わず前のめりになったが、どうにか倒れることなく踏みとどまった。急いで降り返ってみたがもちろんそこには誰もいない。

「ただ、僕にはなんだかその場所の空気が、きらきら光っているような気がしたよ」

立体作品の作家は大概がそうだが、Tもまた体の大きな人である。その彼を前のめりさせるほどの力でぶつかってきた何か。彼はそれを後に「妖精」と呼んだ。

「ずいぶん、いたずらっぽい妖精ですね」

私は思わず微笑んでしまった。きらきら光ったのは、きっと妖精が笑っていたのだろう。北緯58度のその小さな島を訪れた見知らぬ旅人を少しだけ驚かせようとして。T はその後、イギリスの別の場所でふたたび妖精に出会ったという。

「妖精ってたしかにいますよ」

そう続けたのは若手作家のMだった。彼もまた奇妙な体験が多いことで仲間内では知られるアーティストだ。自宅の仏間で座布団が宙に浮き上がるというポルターガイスト現象の目撃者でもあった。

「山とか歩いてると、足元に白いふわふわしたものが付いてくるんですよ。なんだか 不気味ですよねぇ」

とありふれた出来事のように語るのがまた不気味だった。私は心の中で、それは妖精というのか? 別のモノノケではないのか? と思ったが口には出さずにいた。そこに居合わせた私以外の全ての人が、どうやらその種の不可思議な経験の持ち主だったので、話はとどまるところを知らなかった。酒宴はいつしか『百物語』の様相を呈していたのだ。

夜、眠っている時に、ものすごい喧騒が右の耳から左の耳に駆けぬけていった、と主張する者もいた。晴天で風もない日、とある静かな山中を車走らせていた時、その土地がとても「うるさく、ざわざわしていた」と主張する者もいた。実はその車には私も同乗していたのだが、その時の私がどうだったかというと「静かで素敵な所! のんびりしてて。こんな場所に住みたい」と、無邪気にはしゃいですらいた。「あなたはノンキでいいねぇ」みなが溜息まじりに私を見た。

夜もふけて、アーティストたちによる百物語もそろそろ佳境に入ってきた。最後はこの山荘の主、彫刻家Kの話だ。

「この話は結構有名な話でね、以前知り合いのフォーク歌手のKにこの話をしたところ、彼がそれをラジオで話して問い合わせが殺到したことがあるんだ」

みなは酒の入ったグラスを持ったまま、じっとKの話に耳を傾けた。

「もうずいぶん前のことだけど、仕事である町に行っていつものように帰りに呑んでたんだよ。翌日もその町で仕事だったから、もう名古屋に戻るのが面倒くさくなっちゃったんだな。だから、駅の近くの小さな旅館に泊まることにしたんだ」

そこは、はじめて泊まる旅館だった。Kは玄関で「すみません」と中に向かって呼びかけたが返答がない。何度もそんな風に呼びかけた後、やっとひとりの老婆が顔を出した。

「急で悪いんですが、ひとり泊まれますか?」

Kの問いかけに老婆は「今日は混んでいて満室だけど、おひとりなら大丈夫です」と答えたという。時間はまだ夜の10時台。しかし、他の部屋からはまったく物音ひとつしない。旅館全体が奇妙に静まり返っていた。本当に満室なのか? ちらと、そんなことが頭をかすめたが、とにかく疲れていたのですぐに部屋に案内してもらった。通された2階のその部屋は、なんの変哲もない和室だった。

Kを部屋に案内すると、老婆はすぐに姿を消した。疲れていたがまだ眠くもなかったKは、しばらくは部屋でタバコを吸ってぼんやりしていた。相変わらず、旅館の中はしんとして、物音ひとつしない。手持ち無沙汰になったKはビールでも飲もうと階下に声をかけた。しかし、何度呼ばわっても、もう誰もその声に応答することはなかった。

「なんだ、婆さん寝ちゃったのか」

年寄りを起こすのも気の毒だと思い、Kはビールを飲むのをあきらめた。そのうち持っていたタバコも吸いきってしまい、何もすることがないので仕方なく寝ることにした。

「横になってどのくらいたったか。電気を消した天井の一角がぼおっと青白く光って見えたんだよ」

その直後、その青白い光のあたりから発した衣擦れを伴う足音が、Kの寝ている部屋の真上をバツ印を描くように、対角線上に繰り返し行き来しはじめた。Kのいる部屋は2階、そこが最上階でその上に部屋はない。部屋の隅から隅へと、足音は近づいたり遠ざかったりしながら、ずいぶんと長く続いたという。

あれは女の幽霊だった、とKは断言した。結局朝までまんじりともせず、そろそろ日が昇るという時刻を待って、Kは閉じられていた部屋のカーテンを勢いよく引いた。その時、旅館の窓から彼が見たものは、

「墓地だったんだよ……」

それって怪談じゃないですか! それも純和風の正統派。イギリスの妖精物語とはずいぶん趣が違いますねぇ。牡丹燈篭みたい。などと銘々がぞくぞくしながら感想をいいあっていると、

「まだ続きがあるんだ」

とばかりKはみなの興奮を制した。

「どうやら、俺はその時、その女の幽霊に取り憑かれたみたいなんだ。それから、何日も肩に何かがのしかかっているようで、とにかく体が重くて仕方なかった」

その当時、Kはアメリカにも住まいを構えていて、制作や展覧会のために日本と行ったり来たりする生活をしていた。のしかかった「何か」を抱えたまま、彼はアメリカへと向かうことになった。憂鬱な気分のまま、Kはカリフォルニアの青い空の元、ロスアンジェルス国際空港へと降り立った。そして、一歩、アメリカの地へ足を踏み出した途端。

「肩がすっと軽くなっちゃったんだよね」

どうやら旅館での一夜以来、Kに取り憑いていた彼女は、ロスアンジェルスで彼に別れを告げたらしい。Kは遠い目をしてこう言った。

「ところで、あの女の幽霊は、英語を話せたんだろうか?」

それがオチかい?

 
 
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