バイマンスリー/ ギャラリー・アドベンチャー
9月
8日水曜日

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 #17 ヰタ・セクスアリス

 

「デッサン・モデルのバイトしませんか?」

一年ほど前のことだ。ギャラリーをやめる直前の私に、そう声をかけてきたのは、美大受験生対象にデッサン教室を開いている作家のMだった。

「ヌード?」

じきに収入の道が途絶える私に向かってデッサン・モデルのバイトをしてくれというのだから、それは当然ヌードだと思った。着衣だったら、学生同士ですればいいことだし、わざわざ外部に声をかけるというのはそういうことだと "私の常識" は、判断したのだ。

「え、ヌードやってくれるんですか?」
「いいけど、あたしは高いよ。ふっふっふっ」
「そりゃあ、ヌードならバイト代もはずみますけどね。できるんですかぁ?」
「ええっ、必然性があれば脱ぎます! 芸術のためなら脱ぎますともっ!」
「内藤さん……ふざけてますね?」

ふざけていたわけではないのだが、とりあえず場を盛り上げるために言ってみただけだ。しかし、よく考えてみると着衣だろうがヌードだろうが、写真のモデルと違ってデッサンのモデルというのは、同じポーズを取っている時間が長く、なんだかとっても疲れそうだし、退屈そうでもある。肩が凝りそうだ。

かねてより、美術館の展示室の椅子に座ったままだまってじっとしている監視員の仕事だって、絶対にできないと思っていた私である。いつ、息をしていいのか考えてしまうじゃないか? そんな馬鹿なことを考えるのは、私だけなのだろうか?

「本読んでいてもいい?」

私はMに、私にとって都合のいい提案を持ちかけてみた。つまり『読書する裸婦』というわけだ。退屈しのぎにもなり一石二鳥だ。

「読書のポーズを入れてもいいですけど、ずっとそれじゃだめですよ。いろんなポーズしてくれなきゃ」
「えー、ずっと本読んでちゃ駄目なの? 退屈じゃない」
「駄目ですよ! そんなぐうたらなモデルいりません! わがままです!」

けっきょく、私のようなぐうたらでわがままな人間は着衣だろうがヌードだろうが、モデルには不向きであることが判明しただけで、この件は沙汰止みになった。淡谷のり子だって若い頃は経済的問題という必然性を抱えてヌード・モデルをしたわけで、私は百年経ってもブルースの女王の足下にも及びそうもない。まだまだ修行が足らないのだ。

どうしても青春の思い出にヌード・モデルをしてみたかったわけではないので、バイトできなかったことはたいした問題ではなかった。しかし、それとは別に作家であるMとの会話を反芻していた私はふとあることに思い至った。これはちょっとした発見であった。

あの時の会話及び私の心の中には「人前でヌードなんて恥ずかしい」という気持ちが、実は全然なかったのである。私はこれまでヌード・モデルの経験もないし、それに類した「複数の人間の前でヌード」というのも銭湯以外では経験したことがないにもかかわらず、だ。これは、どうしたことか? 私は、実は露出狂だったのか? そんな馬鹿なことはない。

単なるヌードが「恥ずかしいもの」だという過剰な自意識というのは、旧約聖書のアダムとイブのお話にだって出てくるくらいで、文明のかさぶたみたいなものだ。文明社会に生きている限り、幼い頃からこれらの情報は自然に刷り込まれてゆく。ヌーディスト村に育った子どもでもない限りは。

ある日、小学校3年生の女の子と話をしていた時のこと。彼女は突然、「お父さんを見損なった」と私に言った。

「どうして?」
「だって、

お父さんが昔描いた絵に女の人の裸があったから。

いやらしいもん」

彼女が抵抗を感じたのは、たぶん、絵の中の女性の裸そのものではなく、その裸と向かい合っていた父親と自分が出会ってしまった、そのことに対する戸惑いであろう。

思い起こせば、美術の大好きだった少女時代の私も、フィレンツェのアカデミーア美術館のミケランジェロによるダビデ像の写真を正視できるまでには、けっこうな時間を費やしたっけ(遠い目)。あれだって、ダビデの裸体が恥ずかしいのではなく、それを凝視している(と外部から見られる)ことが恥ずかしかったっていうだけなのだ。まさに思春期にありがちな自意識過剰状態。

そんな自意識過剰なお年頃、現在よりもさらに性の情報が乏しかった20〜30年くらい前、美大受験のために高校生くらいで女性のヌード・デッサンをしたというかつての少年の経験談というのは、なかなかに興味深いものがある。現在の状況はよくわからないが、当時、受験生対象のヌードモデルというのは、やはり「おばさん」が多かったらしい。おばさん、と言ってもたぶん今の私くらいの年齢だったりするのだろうが、少年からみれば充分におばさんだ。

イーゼルに立てかけた木炭紙に、もくもくとはじめての女性ヌードのデッサンをしていたT君(当時高校生)は、突然笑いの発作に襲われたそうだ。しん、と静まり返る室内から、口元を押さえて部屋を飛び出すと、外に出るなり大爆笑したらしい。笑いはしばらく止まらなかったそうだ。

「ショックだったんだな、きっと。笑ってごまかすしかなかったんだ。美術作品の中でしか見たことなかったもんな、女性ヌード。それがいきなり目の前だもんな」

冷静でいろってほうがどうかしてるよ。は、はは……と彼は力なく笑った。30年ほどまえの出来事である。

過剰な自意識を拒絶や笑いでごまかす、というのは幼い頃にはありがちなことだ。ヌードに対面した時に引き起こされるある種の感情は、別に特別なことではない。逆に、そのような葛藤がぜんぜんない方がおかしなことだと私は思う。だから、「お父さんを見損なった」という少女の率直な感情は、現時点では正しいのである。そういう過剰な自意識が取り払われてゆくのも、また美術作品を通して可能だということを彼女はまだ知らない。

すでに、アートの世界では人間の肉体に関する表現のタブーは取り払われて久しい。ミケランジェロのダビデ像にすら目をそむけていた少女は、今は展覧会の会場でスポットライトの元にあからさまにされる写真の中の全裸の男性ヌードに淡々と向かい合っている。もう、うろたえたりすることは何もないのだ。なぜなら、ヌードは人間の存在をあきらかにするひとつの記号だから。それは、いつも最も身近で最も謎めいた存在である。肉体は永遠に視覚の対象として追求され、作品化されるだろう。

しかしながら、上記の話はあくまでもアートの中のヌードの話だ。個人的には、実際に風呂上がりにパンツいっちょでうろうろするような人間は、男女を問わずどうかと思う。作品の中のヌードに過剰反応するのは文明のかさぶただが、こういうのは文化や風習の問題である。

昔の人も、こう言った。「親しき仲にも礼儀あり」と。

 
 
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