バイマンスリー/ ギャラリー・アドベンチャー
10月
21日木曜日

Back Number

About the Author

Mail to the Author

 

 

 #19 ひとりよりふたり

 

先月、十数年来の友人が代表取締役を勤めているデザイン会社の前期の事業報告書と今期の事業計画書を受け取った。「マイナス○千○百万円の大赤字!」彼の手によって書かれた事業報告書はそんな調子で始まった。「〜〜の事情でもう借り入れもできません」そのくせ、それはなんだか明るいものだった。

彼にはじめて会ったのは、私がまだ20代の前半の頃。事務所は、実家のガレージを改装したもので、夏は暑いわ冬は寒いわの上に、コピー機の隙間を縫うようにしないと向こう側へたどりつけないとても狭い空間だった。その場所で、たったひとりで、彼は会社をはじめた。

その頃の私は、彼に時折ライターの仕事をもらっていたのだが、実際にはほとんど添削による文章教室のような状態で、基本的な文章(業務用の)の書き方を教えてもらいながら、しょっちゅう彼の家へ遊びに行って奥さんの手料理を食べさせてもらっていた。

事務所はまだ人を雇えるような経営状態ではなかったが、これといった就職をしているわけでもなかった私に、彼は「いつか俺の事務所に来いよな。もう少しでなんとかなるからさ」と声をかけてくれた。

私はそれからすぐに父を病気で亡くし、母による「うちはもう母子家庭なんだからね、ちゃんと就職しなさい!」という厳命のもと、たまたまオープン直前だった画廊に滑り込むように就職することになった。「母子家庭なんて。もう娘ふたりとも成人してるのに、本当の母子家庭の人に悪いよね」などとぶつぶつ言いながら。

私は子どもの頃から美術が大好きで、学生時代にも美術館通いを続けてはいたが、特に美術関係の仕事をしたいという意識はなくて、つまり画廊への就職は友人の事務所の経営が安定するまでの腰掛けのつもりだったのだ。

数年が経ち、友人の事務所は順調に業績を伸ばしてきた。画廊にふらりとやってきた彼の「今なら雇えるぞ」ということばに、しかし私は「画廊の仕事がおもしろくなってしまった。まだこの仕事を続けたい」と答えた。「そうか」そういいながら彼は、壁にかかっている一点の作品を買って帰っていった。

友人の事務所はどんどんスタッフを増やしていった。ついでに家庭も子どもはいつの間にかふたりから四人に増えていた。あっという間に友人は個人商店にしてはけっこうな大所帯の主になっていたのだ。彼の事務所に行かなかった理由のほとんどは、画廊の仕事がおもしろくなっていたということだが、私の気持ちの中にはほんの少し、その「大所帯が苦手」という部分があったのも正直なところである。

私にはだいたい昔からそういうところがあった。特に成人してからはその傾向が強くなり、組織というものに所属することを考えるだけでげんなりした。画廊はボスと私のふたりだけ。その上、ボスはなんの経験もない私に対してかなり放任な態度を貫いていて、職場での責任は重かったが気ままでもあった。せっかく雇い入れを申し出てくれたのに自分の都合で断ってしまった私に、それでも友人は時折ライター仕事をまわしてくれた。

打ち合わせのため事務所を訪れるたびに、スタッフの数は増えていたような気がする。いつか友人に尋ねたことがある。

「なんでそんなに会社を大きくしたいの?」

「そりゃあ、ひとりじゃできないことが大勢ならできるからね」たしかに、大勢でしかできない仕事はあるのだろうが、それがそんなに魅力的なことには私には思えなかった。しかも、彼の事務所のスタッフは、若者にしては、いや、今の若者だからだろうか、なんとなく自閉的で覇気がなく、客商売にどっぷりつかっている私からすると、もそもそしたタイプばかりに見えた。

そんな若者たちも、仕事では確実に成長していったようだ。アパート住まいだった友人は、事務所兼用の自宅を新築し、やがて通りをへだてたビルの一室もスタジオとして借りるようになる。ガレージが事務所だった頃を思えば、なんだか夢のような気持ちがする。

あの頃、デザイン事務所を企業として発展させたいという壮大な彼の夢は、当時まだ地方の個人デザイン事務所が持つには高価すぎるコンピュータの導入などとあいまって、同業者には「大風呂敷」の印象があったと思う。けれど、彼は語った夢の多くを実現させていった。

事務所を株式会社にする時点で、友人は知り合いから株主を募った。「同族会社にはしない」「会社は株主のもの」――会社をひとりでたちあげ、自分の家屋敷を担保に大きな借金をかかえる人間とは思えないような明快な彼のことばに、たくさんの人達が「金はどぶに捨てるつもりで」投資した。「とにかく、おもしろがらせてくれ」と言いながら。

こうしてたったひとりから始まった彼の事務所は、今や株式会社であり、私も株主のひとりとなった。株主仲間のひとりは70万円を投資したあと、私にこう言った。「いつも、マンガとか借りてるからさぁ」。

やがて、私は10年という月日を過ごした画廊の仕事をやめた。心配した友人は、再び「うちの会社に来ないか?」と声をかけてくれたが、やはりひとりの方が気が楽だと丁重にお断りした。できるかどうかわからないけれど、ずっとひとりでやっていこう。不安はあったが、そういうふうにしかできない、そう思いながら私は一年近くを過ごしてきた。

しかし、人の縁というのは不思議なもので、今年の夏、私は別の元画廊アシスタントと出会い、あれよあれよという間に、ふたりで仕事をはじめることになってしまった。業務内容は現代美術に関するコーディネートとプランニング。人に指摘されるまでもなくそれは茨の道である。

「大丈夫、できますよ」根拠があるのかないのかよくわからない相棒のひとことが、逡巡する私を動かした。そうして、相棒との出会いから三カ月。約二カ月の準備期間を経て、私は再び美術の仕事をはじめることになり、そして今度は、たったふたりだけれども、私がその代表となった。

経済的な基盤はぜんぜんなかったが、やる気とアイデアだけは誰にも負けないくらいあった。野望はまるで、坂道の途中に置かれた雪の玉のように、どんどんとまわりの雪を巻き込みながら膨れ上がって転がりはじめた。その時、私が思ったのは、意外にも

「もっとたくさんのスタッフが必要だ」

ということだった。

気がつけば、私のまわりには専門的な知識と経験を持った何人かの有能な人たちがいる。彼らといっしょに仕事ができたら、どんなに面白いだろう。私と相棒はさっそく目をつけた何人かに「いつかいっしょに仕事をしよう。早くそれが実現するように、私たちは当面事務所の基盤づくりに励む。だから、しばらくお待ちください」と声をかけた。

そして、あんなに長い間いっしょに仕事をしたりどんなことでも語り合ってきたのに、どうしてもわからなかった友人の事業の拡大に対する思いや、たくさんのスタッフに対する気持ち、そして家族にたいする思いまでもが、今になってようやく理解できたような気がした。

受け取った赤字の事業報告書には、同時に、増資を募ることも書かれていた。現在の私に友人の会社に投資する資金はない。けれど、本心をいえば、今ほどありがねはたいてでも彼の会社に投資したいと思ったこともないのである。そんな折も折、十数年間無理解だった私が新たに事業を始めると告げた時、彼はひとこと、「がんばれ」と言った。

 
 
Copyright 1999 by Miwa Naitoh, Boiled Eggs Ltd. All rights reserved.