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バイマンスリー/
ギャラリー・アドベンチャー ■4月7日水曜日 |
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#7 子供たちは見ている
私の心の中には、たくさんの子供たちの姿がある。ある子供は自ら描き、またある子供は描かれたものを見ている。別の子供は描かれたものの話にじっと息を詰め、耳を傾けている。私は、そんなたくさんの子供たちを知っている。彼らは、実際に私の目の前にいたし、誰かの記憶の中の子供ですら、私はその子たちを見たような気がする。 あの男の子のことはとてもよく覚えている。小学校の時のクラスメートだ。彼とは、家も近所だったし、私と誕生日も同じだった。でも、彼にまつわる一番の記憶は、図書館の大きなテーブルで並んで別々の画集を眺めていた時のことだ。 田舎の小学校の図書館で、入荷したばかりのその子供向けに解説文が付いた世界の美術シリーズは、なんだか他の本と違ってぴかぴかとまぶしく見えた。私も彼も学校では「絵の上手な子供」だったと思う。子供ごころに彼の描く絵が好きだった。それは私には絶対に描けない、ものすごくパワフルな絵だった。正統派の田舎の元気な男の子であった彼のキャラクターそのままに、その絵は荒削りだけどエネルギーに満ちていた。けれど、その日、図書館で彼は1冊の画集に釘付けになって、誰に語りかけるのでもなくつぶやいたのだ。 「すっげぇ……」 何十年も前に、偶然図書館で隣り合わせた小学生の男の子の口から発せられたこのひとことを、なぜ私が今日まで鮮明に覚えているのか本当に不思議だ。 確かにその絵は美術館という場所を訪れたこともなく、画集を目にする機会もなかった田舎の絵の好きな小学生には驚くべき未知との遭遇ではあった。私だって、今でもその絵のことはよく覚えている。アルブレヒト・デューラーの、確か自画像だったと思う。 しかし、私に深い印象を与えたのはデューラーの絵ではなく、画集の中にその絵を見つけて「すげえ」とつぶやいた彼の驚嘆だ。彼は絵に感動し、私は絵を見て感動しているその男の子に感動した。彼の感動はまさに畏怖に近いものだった。電撃に打たれたように彼はその一枚の絵の前でひざまずき、ひれふした。彼の、心が。 私は目を見張った。授業が終われば、一匹の小動物のように勢いよく家路に続くあぜ道を駆けてゆくだろうこのひとりの男の子。その頭上に、あたかもミューズが舞い降りて来て芸術の力で彼をとりこにしているのを目撃してしまったような、そんな気分だったのかもしれない。 「そっちこそ、すごい」 私は子供ごころにそう思った。彼はあの絵のことを覚えているだろうか? 私は忘れない。あの絵のことも、そしてそれに出会ったひとりの子供のことも。 別の子供は、私の想像の中の子供だ。彼は、遠い南の国に住んでいる。タイ、バンコク。華僑である彼は、中国生まれの父親が「書」をたしなむのを見ている。彼自身はタイで生まれ育ったので、中国語はわからない。漢字を読むことも出来ない。けれど、その少年は部屋の中に漂う清冽な墨の匂いを嗅いだだろう。真っ白な紙に、真っ黒な墨をたっぷりと含んだ筆が静かにおろされ、不思議な線が描かれてゆくのをじっと見ていただろう。私は、大人になったその少年に出会った。 タイの作家、ターウォン・コー・ウドゥンウィット。その日、私は個展のために来日していた彼と、ある美術館を訪れた。偶然、その日は子供たちの絵のコンペティションが開催されていた。私たちは並んで日本の子供たちの絵をながめた。ターウォンはバンコクの大学で美術を教えていることもあり、それなりにおもしろがっていたようだ。けれど、私は違った。 「うー、なんかみんな同じような絵ばっかり」 会場を奥に進むともっと年齢の低い子供たちの作品が展示されていた。年齢が低くなるほど、そこに描かれるもの、色、描き方などのバラエティは豊かになるような気がした。 美術館の別の部屋には世界の子供たちが描いた絵が展示されているコーナーがあって、その部屋に入るなりターウォンは無邪気に大声を出した。 また別の男の子は小学校の写生大会で大阪城を描いていた。20年ほど前、彼は絵を描くことの好きな、小さな子供だった。画板の上に描かれていたのは真昼の太陽と大阪城。彼の絵を覗き込んだある教師はこう言った。 その子の名前は中川佳宣。大人になった彼はアーティストになった。 たくさんの子供たちもいる。彼らはじっと耳をかたむけている。教壇に立っているのははじめて会ったひとりの大人。その人はごろごろとした石が円形に並んだものを「作品」だと言って、それを作ったアーティストの話をしている。 学校には時々、先生ではない大人がやってきて授業をする。その日、子供たちの前にいたのは土屋公雄という人で作家だそうだ。でも、みんなその人のことは知らない。背が高くて、がっしりして、山のように大きな人だ。その人は昔、イギリスに住んでいて、今日話しているのはイギリス人のアーティストの「リチャード・ロング」のことばかり。 リチャード・ロングなんてはじめて聴いたし、美術の授業でみる作品とは全然違う。
土屋公雄から、リチャード・ロングについての講義を小学生の子供たちにした話を聞いた時、私はとても驚いた。 私は恐る恐る尋ねた。イギリスの現代美術の代表的な作家であるリチャード・ロングは、ストーン・ヘンジを彷彿とさせる環状列石のような作品が特に知られている。子どもたちはロングの作品とどのように出会ったのだろうか? そんな幼い頃、現代美術の作品との出会いを持たなかった私にはとても興味深いことだった。 「すごく面白がってたよ」 魔法をかけたな。と私は思った。同時に、私自身がその子供たちの中にいて、もっとリチャード・ロングの話を聞かせてほしいと歓声をあげているような気持ちでもあった。 ある日、遊びに来ていた3歳の姪が残していった絵を私は見ていた。子供に人気のあるアニメのキャラクターが描かれているのもあり、ご丁寧にそれを3Dの飛び出す絵にしてあるのもあった。何枚もめくってゆくと、その中に自分の手に絵の具を塗って、それをぺたん、と紙に押しつけたものがいくつかあらわれた。 「ふーん、モノタイプの版画だね」 原初的なその表現を私は楽しくながめていた。その時、私は何枚かのその小さな手形に姪の手でたどたどしく数字が書かれているのを見つけた。順番にナンバリングしてあるのだ。 「これってエディション!?」 ふいを突かれた私は、こみあげてくる気持ちを抑えられずに大きな声で笑った。楽しさが、堰を切ったように溢れてくる。母が台所から不気味なものを見るように私をながめていた。 3歳の小さな女の子が、掌に絵の具を塗っては、それをいくつもいくつも紙に押し当てている。それからそこにナンバーを書き込んでゆく。誰が教えたわけでもないのに、たぶんそれは彼女にとってひとつの発明だったのだろう。 子供たちは見ている。私はそれを見ている。子供だった私が見たもの、大人になった私の見たもの。それから、誰かの想い出の中に生きている子供たち。私の知らない街で、私の知らない時を、何かを見つめてきた子供たちがいる。ひとりで、もくもくと何かを描こうとしていた子供がいる。 違う時間と空間から、私は彼らを見る。彼らが見つめていた世界のその先を見たいと思う。 ■ |
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