バイマンスリー/ ギャラリー・アドベンチャー
4月
21日水曜日

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 #8 カリフォルニアの青空の下で

 

「最初に訪れた国のことを、たいていの人は好きになるものだよ」写真家のSさんは、旅行の話をしている時にそんなことを言った。「だから僕はベトナムが今でも好きだな」

私がアメリカを好きなのは、それがはじめて訪れた外国だからなのだろうか? 私の両親の青春時代はまさにハリウッド映画の黄金期。親子2代に渡って享受してきたアメリカ文化は、子どもの好きなお菓子につきものの食品添加物のようにあらゆる新しいことや驚きにいつも寄り添っていた。しかし、憧れは提供される情報であって、私自身はアメリカという国そのものを訪れたいと思ったことはなかった。

私の年齢でもすでに大学の卒業旅行で海外へ、というのはぼちぼちあったように記憶する。が、私は大学を縦に出ないで横に出たのでそういう機会もなかった。ついでに会社勤めの経験もないのでボーナスで同僚OLたちと香港食い倒れの旅も経験できなかった。だからずっとこんなふうに思っていた。私という人間はこのままずっと日本の国土から離れることもなく、静かに年老いて死んでゆくのだ、それでいいのだ、どうせ英語話せないし。

ところが、画廊に勤めはじめて間もなく、いくら日本の片田舎に暮らしていようが、現代美術を生業にする限り、アーティストは外国人だったり外国に住んでいる日本人だったりして、私の穏やかな人生の中に、否応なく外国語や外国人に出会う頻度が増えてきた。話せないにも限度がある。そんなこんなで自腹を切って1年間英会話の個人レッスンを受け、とりあえず挨拶くらいはできるだろうというものすごく低レベルの語学力のまま、1991年夏、私は28歳にして初めて機上の人となったのである。

目的地はロスアンジェルス。何人かのギャラリー取り扱いのアーティストに会うために。 なにしろはじめての海外旅行。しかもひとり旅、その上飛行機に乗るのだって初体験というウブな私だ。名古屋、ロスアンジェルスの直行便はなく、言葉もろくに通じない私が、名前もろくに聞いたことのないような空港で乗り換えるという恐怖に身をすくませるくらいならば、と直行便のある大阪に向かった。当時はまだ関西新国際空港がなかったので伊丹空港から出発した。7月の蒸し暑い日本を脱出してたどり着いたそこは、さわやかなカリフォルニアの青い空の下、ロスアンジェルス国際空港だった。

約束の場所には、当時ロスアンジェルスを拠点に作家活動をしていた彫刻家の国島征二と夫人の一美さんが出迎えてくれるはずだった。見回してもまだ着いていないようだ。はじめての外国ではあったが、不思議と不安はなく、ではふたりが来るまでそこのスタンドでコーヒーでも飲んで待ってようかな、などと呑気に考えてずるずるとスーツケースを引きずって歩く。と、柱の陰から頭だけだした国島征二がいたずらっぽい表情をしながらこちらを伺っているのを見つけた。
「国島さん。いらしてたんですか」
「どこいくの?」
「まだいらしてないみたいだったから、スタンドでコーヒーでも飲もうかと」
「いい度胸してるねぇ」
「国島さんこそ、そんなとこに隠れちゃって、もう」
アーティストにはこういういたずら好きの側面を持っている人が多い。

国島夫人の運転する車で、ダウンタウンにある国島邸へ向かう。ロスアンジェルスというのは、なんだかとてもがらんとした街だ。映画で見たロスというのはもっと大都会だという印象があったのだが。結局、この「ロスはそんなに都会じゃない」という奇妙な印象は、最後まで付いてまわった。「あれが『ダイハード』に出てきたナカトミ・ビルディング」と説明されても、「はぁ、そうですか」という感じに。その後ニューヨークを訪れた時も、正直言ってハードウェアとしての都市を見る限り、そのスケールはロスアンジェルスと同様に「まぁ、こんなものかな」という感想だった。

しかし、アートという視点でそれらの都市を眺めたとき、私はとんでもないカルチャー・ショックを受けることになる。その最初の洗礼がこのロスアンジェルスで待ち受けていたのであった。

ダウンタウンの国島邸は、煉瓦造りのいわゆるロフトであった。かつては、どこかの会社の倉庫だったのだろうか、そのエレベータは「積載重量5トンまで」といった趣の、完全に荷物用のものである。上階にある国島邸にスーツケースを置くやいなや、私は国島征二に「美術館へ行こう」と街に連れ出された。その時、ロスアンジェルスの街はカリフォルニアの太陽が照りつける真っ昼間。しかし、日本での時間は夜である。「時差ボケにならないように」と結局その日は夕方近くまで歩いていけるアートスペースを徹底的に引き回されることになった。実はその後何度かの海外旅行の経験で、私という人間の辞書には時差ボケという文字はないことが判明するのだが。

さて、最初に訪れたのはロスアンジェルス現代美術館(通称MOCA)の別館的ポジションであったと記憶する「テンポラリー・コンテンポラリー」だ。名前の通り仮設的に作られた美術館で、巨大な倉庫を改装したものすごくシンプルかつ現代的でかなりかっこいいスペースだった。

やっていた展覧会は60年代から70年代にかけてのネオン管や蛍光灯などを使ったアーティストたちによる企画展。おぼろげな記憶をたどるとキース・ソニアとかダン・フレイヴンなどの作品があったように思う。いわゆる玄人好みの作品群で、展覧会としては質的には高く、印象としてはかなり地味といったところだろうか。さすがにアメリカといえどもあまり世間一般に知れ渡っているアーティストとはどうも思えない。しかし作品のうちのいくつかは大変に知的で、また静謐な感じがして見ているととても気持ちがよい。

心静かにそれらの作品を眺めながら、展示室を歩き回っていた私は、ある部屋に来てぎょっとした。小学生くらいの子供たちがいっぱいいるのだ。多くの子供たちは床にじかに座り込んでいるし、作品をのぞきこんでいる子もいるし、中には床に寝ころんでいる子もいる。思い思いのポーズをとりながら、子供たちが何をしていたかというと、引率の先生とおぼしき大人が無機質な蛍光灯が並んだ作品を前に解説しているその言葉にじっと耳を傾けているのである。

「小学生をこの展覧会に連れてくるかしら?」

もちろんそういう驚きもあった。どうやってこの作品を解説しているのだろうか、という純粋な興味である。しかし、それ以上に私を驚かせたのは、美術館という施設の中での子供たちののびのびとした振る舞いだった。そこにはまるで

「授業」でなく「ピクニック」に訪れているような

楽しげな雰囲気があったからだ。

過日、国内の美術館に、やっとことばを話せるようになったばかりの姪を連れていった時、床に並べられたカラフルなプラスチックの断片でかたち造られたトニー・クラッグの作品をみた彼女が、私に向かって大声で「おもしろいねぇ、これ、すごいねぇ!」と叫んだところ、室内監視員に「しっ、静かに」とすばやく忠告を受けたのとはずいぶんな違いだ。

ときおり思うのは、日本では感動に対する受け皿がひどく狭いということだ。たくさんの感動を、とくに子供たちの原初的な心の声をどうして閉じこめてしまうのだろう、と私は思う。少なくともアメリカでは、美術館の静かな空間で作品に向かい合った時に「ワォ!」と叫ぶ子供とそれを笑って見守る大人がいる。大人に求められるのは、作品の理解を促す言葉ではなく、たぶんいっしょに「ワォ!」と喜ぶことなのではないだろうか? 私はロスアンジェルスでそのような光景を何度も目にした。

およそ一週間ほどの滞在で、私はたくさんの美術関係者と会った。ある日は、国島征二が永年発表を続けているロスのギャラリーを訪れた。日本のギャラリーでは展覧会の初日にアーティストを囲んだオープニング・パーティーを開催する習慣がある。それはロスアンジェルスでも同じなのだが、こちらではたまになんでもない平日のお昼に特別なコレクターとアーティストを招いてコーヒーと軽食による気軽なパーティーをすることもあるらしい。私の訪れたのはたまたまそんな日で、熱いコーヒー片手に楽しくおしゃべりしながら、たくさんの作品を見せてもらった。おかげで2000ドルのマルチプルの作品を購入してしまったのだが、それもまた楽しい思い出だ。

そのギャラリーのディレクターのエド・ロウとは、別の日に車で遠出してアンティーク街を回った。夜はエドが声をかけて集まったアーティストや評論家たちと6人ほどでチャイナタウンで中華料理を食べた。当時はテレビドラマの『ツイン・ピークス』が流行っていたようだ。会話が英語なのでよくは理解できなかったが、食事をしながらその話題で彼らはずいぶん盛り上がっていた。食後にはお馴染みのフォーチュン・クッキーでわいわいと他愛ない占いに興じる。

確かエドのクッキーだったか、「年をとっても素晴らしい友人に恵まれた幸せな人生を送ることができる」というのがあった。もう初老といってもさしつかえない彼のクッキーの中からその言葉が現れた時、そこにいた彼の友人たちは「すてきなことだね」と彼を祝福していたのをよく覚えている。

そこで同席したアーティストのオルガ・シームは、おばあちゃんと言ってもいいくらいの年齢だった。彼女の家にも遊びに行ったが、家中の壁という壁がいろいろなアーティストの作品コレクションでぎっしり埋まっていたのには驚かされた。彼女はひとつひとつの作品にまつわるたくさんの想い出を持っていて、少しだけそんな話をしてくれた。

私の勤めていたギャラリーの取り扱いアーティストのひとりであるノーマン・シュワーブの作品もそこにあった。それは犬の頭蓋骨が使ってある作品だったが、「この骨は(同じく取り扱いアーティストである)大平実が拾ってノーマンにあげたものよ」と彼女は笑って言った。

大平実の家には1日だけ泊めてもらった。夫人でアーティストでもあるえち子さんと3人でメキシコ料理を食べに行ったところ、そのレストランで出前男性ストリップなるものの実演と遭遇してしまったりしたが、しかし大平実にまつわるいちばんの思い出は、彼のスタジオで話をしていた時にかかってきた電話のことだ。

その電話はロスアンジェルス・カウンティ・ミュージアムのキュレーターからのもので、大平の作品が今度正式にカウンティ・ミュージアムにコレクションされることになった、という朗報だった。電話の内容でおぼろげにその素晴らしい知らせに気付いた私は、受話器に向かって話し続ける大平の笑顔に向けてシャッターを切った。その写真は今も手元にある。

大平実の作品がコレクションされることになったロスアンジェルス・カウンティ・ミュージアムには、アーティストのノーマン・シュワーブとともに訪れた。たぶん週末だったのだろう、美術館はものすごい人で溢れていた。どうもこの国の人たちは時間のある休日には、私たちがデパートでショッピングをするように美術館を訪れる習性があるらしい。そして、カウンティ・ミュージアムは人々が時を過ごすのにふさわしくさまざまな楽しみがいっぱいだった。

まず、美術館前の広場では無料のジャズ・コンサートが開かれていた。たくさんの人たちがそこで音楽に聴き入っている。カウンティは博物館部門や常設展示も充実しているので、決まった企画展を見るだけでなくたくさんの展示を楽しむことができる。訪れている人たちの年齢も実にさまざま。

ベンチではカタログを開いて、今見てきただろう作品について熱心に語り合っている老婦人のふたりづれがいる。展示室では作品の前で恋人の胸に頭をあずけたままじっと作品を見つめているティーンエイジャーの女の子がいる。その展示室の隣の広い室内テラスでは、床にビニールをひいて子供たちが絵の具や接着剤やらを存分に使って段ボールで作品制作に夢中だ。

ここでは定期的に映画の上映会も催される。ミュージアム・ショップには美術館でしか買えない洒落たグッズがいっぱいで、もちろんカウンティのオリジナルグッズだってたくさんある。ショッピングの楽しみもちゃんと味わえる。

最近では日本でも増えてきたが、このような美術館はたいてい会員制度があって、登録すればかなり安く入場できるし、いろんな得点もついてくる。企業が経済的に美術館をサポートすればその会社の社員もまた美術館の利用にあたってさまざまな優遇措置が取られる。こうして、美術館という場所は特別な場所でもなんでもなく、ちょっと空いた時間に気軽に訪れる楽しい場所に変わってゆくのだろう。

ノーマンといっしょに、カウンティ・ミュージアムのレストランのテラスでランチを取りながら、私はそこから見える人々のようすをじっと見ていた。なんて楽しそうなんだろう。そう、ここにはすべてがある。アートにはすべてがある。そんなことを考えながら。

ノーマンが「Hey ! Miwa」と言って、嬉しそうな顔をして私を見た。「You looks happy !」

「もちろん!」

目の前に広がるカリフォルニアの青い空。この向こうに広がる世界を、私はこれからどれだけ目にすることができるのだろう。アートが、川の中に置かれた飛び石のようなものだとしたら、飛び石伝いにぽんぽんと飛んでゆきたい。あの空の彼方まで。そんなことを、レストランのテラスでぼんやりと考えていた。

 
 
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