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そろそろやりたいことも底をついたかなあ、と思い始めたのは、一九九七年の春のことだった。東京のある出版社で、ぼくは書籍編集の仕事を二十年やっていた。十年めまでは文庫を中心にひたすら点数を出し続け、あとの十年は管理職にもなり、ある程度自由にやりたい企画をやらせてもらった。
心底やりたい企画というのはそうそう見つかるものではないのだが、これはと思う企画があれば、やれるだけのことはする。そして、やがて本が完成し手もとを離れてしまうと、やりたい企画がまたひとつ減ってしまったと思い、悲しくなるのである。
そのときのぼくには、どうしてもやっておきたい企画があった。アメリカのジャーナリストによる書き下ろしのノンフィクションで、コンピュータ業界を代表するある企業の二十年を描いた作品だった。海外のエージェントから送られてきた分厚いタイプ原稿がデスクの上にあり、それを読みながら、これを他社にとられたら一生後悔することになるぞ、と思った。
本はそれから一年半ほどかかり、一九九八年の九月に日本語版が出ることになるのだが、編集作業にあたりながら、このテーマでこれ以上にやりたいと思う本はおそらく当分出ないだろう、と何度も思っていた。ここから先も意欲を維持できるか。意欲の低下をごまかし、気持ちをなだめすかしながら、ほどほどの本を出してゆくのはいやだった。
編集者としての限界を感じた。
自分の心を偽ることはできない。なにをやりたいのか。編集者としてなにを実現したいと思っているのか。ぼくの答えは、はっきりしていた。同じことの繰り返しはいやなのだ。人まねでなく、つねに新しいものを求め、納得のゆく本を世に出したい。
その本にかかわった著者や翻訳者、装幀家、本作りに協力した日本人ジャーナリストも、同じ傾向の情熱を持つ人たちだった。コンピュータ業界とその周辺もまた、なにかを成そうとする若い人たちで沸騰していた。
ぼくは本の出版後も、そういうエキサイティングな世界に身を置いて仕事をし続けたいと強く願った。いま飛び出さなければ、またまた一生後悔することになるぞ、と。後悔しても取り返しのつかない年齢にさしかかっていた。
勤めていた出版社は書籍の出版物が中心だったこともあり、ぼくには雑誌編集の経験がなかった。これはと思う新人作家を発掘し、一から育てて世に送り出したいと思っていたが、果たせなかった。このまま編集の仕事をしていても、それを実現するのはほとんど不可能に近かった。
しかし、すぐに辞めては会社に迷惑がかかる。新入社員の入社試験・面接の仕事が終わったら辞表を出し、三カ月後の一九九八年末で辞めようと心に決めた。
辞めた後は、どこにも行かず、独立する。日本にはまだ例のない、日本人作家のための著作権エージェントという仕事を始めるつもりだった。作家の発掘や原稿の募集はインターネットを駆使して行うのである。そのためのウェブマガジンも作る。だが、会社で付き合いのある既存の作家をひっぱってゆくことはやらないことに決めていた。組織や看板に頼らず、苦しくても一から新しい作家の開拓をする。それができなければ、わざわざ独立してなにかを始める意味がないし、真の満足も得られないような気がした。
入社試験の問題を作り、筆記試験を採点し、面接し、内定を出す。その仕事が終われば、とりあえず管理職としてはお役ご免である。筆記試験には作文があった。読み手をどう面白がらせるか、編集者としてのセンスを試すのだが、これがどうもいただけない。一人だけ抜群に面白い話を書く女子学生がいて、ぼくは一読、爆笑した。ユーモアのセンス、妄想癖、話の展開、どれをとっても図抜けていた。
他の試験の成績もよく、編集者志望のこの女子学生は筆記試験をパスし、面接にやってきた。細かい話は覚えていないが、面接の席上、ぼくはこういう話をした。
「あなたは将来、おそらく作家や著者に可愛がられる編集者になれると思う。しかし、資質としてほんとうに向いているのは、作家かライターの仕事ではないか。あなたの作文を読んで、そう感じました」
返事は「いえ、そんなのむりです。編集者になりたいので、そのつもりはありません」という内容だったと思う。志望者の受け答えはだいたいこんなものだ。この女子学生は後の面接も通過したが、最終で縁がなかった。
役目も終わり、ぼくは予定通り辞表を出した。唐突な話で会社にはさぞ迷惑だったろうと思うが、辞表はなんとか受理してもらった。あとは年末までに本を数冊出し、後任を推薦し、残務整理をするだけだった。いよいよこれからがスタートだ。
週末、新しく始めるウェブマガジンの準備をしていたとき、ぼくの頭の片隅を作文の女子学生がよぎった。そういえば、あの学生はその後どうしただろう。年末も近いが、どこかの出版社に決まっただろうか。本人は編集者になりたがっていたが、あの才能を放っておくのは惜しい。
ぼくは一から人を発掘し、育て、できあがった作品をふさわしい出版社に売り込む仕事がしたいのだろう。あの学生に話をするかしないかが、今後の仕事の試金石かもしれない。いままでなら、放っておいて終わりだろう。しかし、本気で才能を発掘する仕事をするつもりなら、学生に話をしてみるべきではないか。執筆は、どんな業種に就職したとしても、力さえあればできるはずだから。ここから先は自分の目を頼るしかないのだぞ。
結果として、これがぼくの著作権エージェントとしての初仕事になった。翌日、学生に電話し、時間を作ってもらい、話をした。前例のない計画で相手も驚いていたが、開設する予定のウェブマガジン、Boiled
Eggs Onlineに連載エッセイを書いてもらうことがその場で決まった。著者名は本名の三浦しをん、エッセイのタイトルは「しをんのしおり」とした。そこで文章の修業をしながら、時期を見て長篇小説などを書いてもらう計画だった。
十二月末で退社し、翌一九九九年一月からBoiled
Eggs Onlineを本格稼働させた。幸運なことにすぐ数人から応募があり、早々にその一人と会った。
三〇代前半の加藤さんという会社員で、「食」に関心があり、エッセイを書いていきたいという。ぼくは、それはやめたほうがいい、と言った。なぜなら、これからデビューしたいという無名の人間のエッセイなど誰も読みたいと思わないからだ。しばらくすると、加藤さんはこんな話をした。
「この近くに面白い中国人がいるんです。戦後日本に初めて薬膳料理を伝えた厨師で、先に亡くなられた陳建民さんの弟子なんですよ。この人の半生は小説以上に波瀾万丈なんです」
「それは面白そうですね。そういうノンフィクションなら、ぼくもぜひ読みたいですよ」
「ではこれから店に行って取材してきます」
モデル本人から小説ならよいとお墨付きをもらった加藤さんは、それから六カ月かけて、生まれて初めて七〇〇枚の小説を書いた。
最初の年は、こうしたまったくの新人たちと二人三脚のつもりで、何度も企画や原稿のやりとりをした。出版社と作家との結びつきの強い日本の出版業界ではきわめて異例のシステムだが、そんな無謀な試みを嬉々としてやっていることに興味をもったのかどうか、ある日、日本経済新聞の編集委員の方が取材に訪れた。「ミドルからの出発」というテーマで二〇〇〇年初頭から連載企画をやるという。
数回取材された後、記事が年明け早々の日本経済新聞夕刊に二回に分けて載ると、かなりの反響があった。ホームページのアドレスも電話番号も書かれていないのに、応募や問い合わせが連日のように舞い込んだ。出版界の先達からは励ましのメールも届いた。
門戸はつねに開かれているが、もちろん応募者すべてがエージェントシステムに登録されるわけではない。登録されたからといって、作家としてデビューできる保証はない。それでも、じつに多くの若い人たちが表現のチャンスを切望しているという事実に、ぼくはすこし驚いた。同時に、手をさしのべる人の不在、偏在を強く思った。出版社という組織の枠やカラーを超えて、才能ある作家を一から育ててゆこうという酔狂な人間が一人くらいいてもいい、と確信した。
これがぼくのやりたいと思っていたことだった。一編集者としての限界を突破することのできる仕事だった。
ぼくは作家ではないが、子供のころから創作の世界に携わって生きてきた。漫画家になりたいと思っていた時期もあるし、小説の勉強をしたこともある。ただ、人間としては、そうした創作ではなく、そこに描かれた現実の人間の生き方に影響を受けた。日本人で言えば、たとえば本田宗一郎であり、いまで言えば、スティーヴ・ジョブズのような生き方だ。彼らのように純粋に、人を感動させる作品を世に送り出せたら、と願い続けてきた。
作家エージェント第一号となった三浦しをんは、自らの就職活動と学生生活の体験をもとに、初めての長篇小説を書いた。この号が出るころには、草思社から『格闘する者に○』という一風変わったタイトルで単行本が出ているはずだ。第二号となった加藤さんの作品も、筆名・加藤文、タイトル『厨師流浪』として、やはりこの四月に日本経済新聞社から刊行される。
以後も今年半ばまでに、ベンチャーをテーマにしたノンフィクション、新人の短篇小説集などの刊行が決まっているが、次の目標はこれまでにないジャンルの文学賞の創設だ。大がかりな仕事になるが、これが実現できれば、新人の門戸はさらに広がる。そのときには、きっとまた思いも寄らない才能が現れて、楽しませてくれることだろう。
「希望はしばしば裏切られるが、何でも楽しくやるのが一番だ」
敬愛する作家海老沢泰久氏のこの言葉を、今ほど実感しながら仕事をしたことはなかった。
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