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ぼくが小滝橋トオルに初めて会ったのは、今からちょうど二年前の八月のことだった。作家エージェントとしての仕事を開始した年だが、まだ出版に至るまでの原稿はなく、その日も炎天下、原稿の売り込みに出版社をまわった。ぼくは約束の時間より早めに新宿のホテルに着き、汗だくになって疲れた体をロビーで休めていた。
名前を呼ばれて顔を上げると、茶色の長髪、真っ黒に日焼けした顔、Tシャツに細身のパンツをはいた青年がそこに立っていた。ぼくは一瞬、湘南かどこかのリゾートホテルで海から戻ってきたばかりのサーファーを見ているような気がした。しかし、もちろんそれは錯覚にすぎず、このサーファーのような青年が待ち合わせの相手、一カ月前にぼくのところに原稿を送ってきた小滝橋トオルにほかならなかった。
会社員と聞いていたので、抱いていたイメージとのギャップに驚かされたが、と同時に、正直これはいけるかもしれないぞとぼくは思った。青年のもつ雰囲気が、短篇小説中の主人公のもつ雰囲気に酷似していると思えたからだった。
話をしてみて、その思いをますます強くした。言葉数は少ないが、礼儀正しい話し方で、一語一語はっきりと発音し、新宿歌舞伎町の隣で生まれました、と言った。預かっていた原稿の主人公たちも、主に新宿や渋谷で、恋をしたり悩んだりしていたのである。
第一短篇集『ショート・ラヴ』の出版が決まったのはそれから半年後の年明け早々だった。五月ごろ初校ゲラが出て、著者校正の打ち合わせのために、吉祥寺で小滝橋トオルと会った。雑踏をぬけ、デパート前の通りに出ようとしたとき、突然小滝橋トオルが声を上げた。
「あ、あれを見てください」
と言って、前方を指さす。が、指さされた方角を見ても、ぼくには何も見えなかった。
「あれですよ。ほら。時計を見てください」
見るとたしかに、通りの端に、すこし錆の浮き出た丸顔の時計が立っていた。
「時計がどうかしたんですか」
「いま何時に見えます」
「ええと……」
と言ったきり、ぼくは言葉が出なくなった。文字盤を見ると、長針が12と1の間を指し、短針が3の数字の一分ほど上のメモリを指していた。これを何時何分と読めばいいのか。胸のあたりがざわざわとした。
非日常的な時空間が目の前に出現したかのようだった。現実には、時計の文字盤は短針が長針に追いつかず、単に狂っていただけだが、周りの時空がゆがんだように感じて、ぼくは呆然とした。そして、この作家は常日頃からこんな観察をしながら物語を紡ぎ出しているのかもしれないなと思った。
残念ながら、小滝橋トオルがぼくを現実歪曲フィールドに誘い込んだのはこれ一度きりだが、このときに体験したざわざわ感は、その後、第二短篇集『ラヴ・オールウェイズ』をまとめる過程で何度も味わうことになった。
『ラヴ・オールウェイズ』のオープニングの物語はこんな出だしで始まる。
坂本は、わたしに心がないと言った。わたしは心がない女だと言う。
お前はオレと同類なんだよ。心のない女だ。彼氏のことを平気で裏切ってこんなコトできんのは、心がない証拠だよ。枕元の有線のチャンネルをいじって、笑いながら坂本は言った。
渋谷のラブホテルで「心がない」と笑われた「わたし」とはどんな人間なのだろう。原稿を読むぼくも、彼らとともに渋谷のホテル街を出て、道玄坂を歩き出す。なぜ「わたし」には「心がない」のか。それを笑う男とどんな理由があって付き合うのか。鼓動が早まり、ぼくの感情は波立った。
短篇集の掉尾に配された物語では、「ぼく」がマンハッタンに飛び、そこで昔の恋人に会う。訪ねてきた理由を聞かれ、「ぼく」は答えをはぐらかす。二人の間にはつねに風が吹き、その風はしだいに強くなる。風の中で、彼女が「ぼく」の耳に言葉を残す。言葉に託された切ない感情が風に舞う。このとき、「強い風のせいか、彼女の目尻が涙で濡れ」るのだが、行間から吹きつける風のせいで、ぼくの目尻も読み返すたびに彼女のようになった。
小滝橋トオルは、都会の雑踏の中で不器用に生きる同世代の男女をさらりとスケッチしてゆく。見過ごされた光景、やり過ごしてしまった感情が、刻印される。心がないと言われた女は、あの日渋谷の交差点で行き場を失くしていたあなたかもしれなかった。マンハッタンに飛んだ「ぼく」の後ろ姿は、小滝橋トオルや昔のぼくに、どことなく似ていた。
日常が非日常に変化する瞬間。小滝橋トオルはその瞬間を、友達同士が交わす挨拶のように、さりげない手つきで文字に焼き付ける。第二短篇集『ラヴ・オールウェイズ』が同世代の読者に強く支持されることを願う。
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