■ 第17回ボイルドエッグズ新人賞講評 ● 村上達朗
今回ははなはだ残念な結果となりました。公募文学賞では世界初ともいえる受賞作の入札システムも順調に軌道に乗り、前回の受賞作・小嶋陽太郎『気障でけっこうです』が各方面から「すごい新人が出てきた」と注目を浴びつつあるときだけに、続く才能の出現に期待していたのですが、結果として、入札のハードルを越えうる作品に出会うことは叶いませんでした。ぼく以上に応募者自身が落胆していることとは思いますが、これに懲りず、よりいっそう奮起してくれることを願います。
そんななか、最後の最後まで受賞作とするか迷ったのが、高津利彦氏『三十路険しき景観悪し』でした。高津利彦氏は前回も『101匹目の芋を洗うサル』という作品で応募してきており、ぼくは講評で「京都を舞台に恋のからんだ不思議な話を書くのは、新人および作家志望者にはハードルが高すぎるので、やめておくべきだ」と指摘しました。京都はもはや森見登美彦、万城目学らによって焼け野原となり、新たな作品の入り込む余地はないと思えるからです。今回の作品はその指摘に対して、「なにくそ。まだあるぞ」と応えてきたものだとぼくは受け止めました。その心意気やよし、です。
小説の書き出しの一行は、「三十路はすべて山の中である。」。これが島崎藤村『夜明け前』の有名な書き出し「木曾路はすべて山の中である。」のもじりであることはいうまでもありません。ぼくはいきなりこの一行に引き込まれ(タイトルはむしろこの『三十路はすべて山の中』にしたほうがよいのではないかなどと考えつつ)、以降縦横無尽に繰り出される絶妙の比喩・喩えに乗せられて、にやにやと、ときには吹き出しながら読み進めました。たとえば、男三十代の主人公は来し方を振り返り、「ああ、振り返れば遠くに若気の至り。さらに遠くに青い春が霞む。反抗期はジュラ紀やカンブリア紀のごとく太古のできごとである。」などと嘆くのです。アラサー独身女子を描いた小説・漫画は多くありますが、「アラサー独身男子」をモチーフにした作品は意外に見かけず、その生態は謎めいています(笑)。これはひとつの発見かもしれないとぼくは思い、期待が高まりました。
男三十代が恋愛にも結婚にも仕事にもいかに宙ぶらりんであるか、であるからこそかえって恋愛にも結婚にも臆病になり、仕事のやる気もさっぱりあがらないでいることが、キレのよい比喩や喩えをちりばめた文章で面白おかしく描かれます。やる気がないくせに一方では世の中をシニカルに眺めないではいられない、そうした現代の三十代社会人の生活の場として「京都」があるのも新鮮です。文章は完璧に近く、比喩の使い方には独特の魅力があり、一言一句、表現をおろそかにせず書いているのがわかる作品でした。
しかし、にもかかわらず最後の最後にこの作品を受賞作とできなかったのは、物語としての結構がどうにも弱く感じられたからです。男三十代の一人称で描かれる心象風景は、後半になるまであまり波風が立たず、読んでいるとその独白がときにしつこく、くどく感じられるのです。作者にそのつもりがなくとも、独白がともすると作者の自己弁護に聞こえてくるのです(ラスト近くになって、自己弁護に終始する自分にダメ出しする展開が用意されてはいますが……)。物語上に、この主人公に対抗する軸がないことが、小説の作りとして弱いのだと思います。合コンで知り合った大阪の女性が出てきますが、これもアラサー独身女子であり、いわば主人公の分身ともいえる位置づけです。勤務している会社が買収に遭い、主人公も窮地に立たされますが、いろいろな世代がいるはずのチームも、結局は一蓮托生の立場になってしまいます。
主人公の独白に対抗する形で、物語の土台に主人公とは立場も価値観も世代も違う人物を配置し、シニカルでやる気のない主人公に揺さぶりをかけることで話に推進力が出るような設定にすべきなのではないか。そうすれば物語全体に緩急、ドライブ感が生まれ、男三十代の生態も客観性を持って読者に迫ってくることになったのではないか。せっかくの「アラサー独身男子」を際立たせるには、そうした小説上の工夫が必要だったのではないか、とぼくは思いました。(東村アキコに『東京タラレバ娘』なる作品があり、まさにアラサー独身女子たちの悲哀を面白おかしく描いた漫画です。未読であれば、この漫画で作品に客観性を与えるやり方を見てください。作家志望者が創作のプロフェッショナルの優れた腕とセンスを盗むことは、決して恥ずべきことではありません。むしろ意識してどんどんやるべきことだと確信します)
高津利彦氏には、文章力に自信をもち、その力を磨き上げる一方で、「小説の客観性」について一度じっくりと考察してみることを勧めたいと思います。この点を心底理解することができたなら、険しく厳しい三十路の景観の向こうに、プロの小説家なる一筋の光明も見えてくるのではないでしょうか。
ほかに、いくつか気になった作品があるので、短くコメントします。
高平あら氏『みたらい家のジェニー』:年末ジャンボ宝くじに高額当選した一家の悲喜劇を達者な文章で描いています。ストーリー展開もうまいのですが、話をひっぱりすぎるパターンと、話そのものが軽すぎてそれ以上ではない点が、気になりました。宝くじの高額当選者の心得については既視感があり、そこになにか別の要素、別の問題やエピソードを組み合わせた物語にしないことには、長編としてのコクは生まれないと思います。
十佐間つくお氏『慶応ボーイ・ミーツ・慶應ガール(作品集)』:等身大のフリーターたちの心情をこと細かに描いている短篇集です。文章も生き生きとして非常によいのですが、このフリーター世代の繰り言はやや食傷気味(失礼!)という気にさせられたのも事実です。小説は時代や世代の典型を描くものでもあるわけですが、時代は変わりつつあり、フリーター世代を描くにも新しい切り口や視点が必要なときに来ているのではないかと感じました。
小澤真氏『キドーが啼いた季節』:いまはない千葉の軽便鉄道を描いた作品で、近代文学を思わせる筆致の力作でした。ただ、ストーリーに日本の近代の歴史をからめすぎるきらいがあり、その分、人物、エピソードがスケッチになってしまっているのが残念です。戦争の時代になると筆者の顔(主張)が出すぎるのも、小説としての結構を壊してしまうので、よくよく注意が必要です。小説は「大説」でなく、「小さな話」なのですから、歴史や主張は人物やエピソードの背後に隠し、物語はなるべく小さな器に盛るようにして描かねばなりません。
本多涼平氏『十四歳のパスワード』:ある日突然しゃべらなくなった中学二年の女の子と、その理由を探ろうとする同級生の男の子の話ですが、おやと思わせる冒頭から、一見つながりのないエピソードをモザイクのように配置していく(伊坂幸太郎風の?)前半の手腕はなかなかのものでした。ただ、たとえば保健室から女の子のノートが盗まれるのですが、どうして部屋にアンモニア臭が残らなかったのか、その臭いで犯人はすぐに(少なくとも読者には)見当がつくはずなのに、いっさい言及がないのはいかにも不自然です。そうしたリアリティのなさが散見されるのと、一人称多視点に三人称まで入ってくる書き方はあらためねばなりません。視点は一人称であれ三人称であれ、一視点に固定して描くというのが小説の基本なのです。このことはこの講評でも何度も指摘していることで、視点を固定し、話柄をもうすこし大きくできれば、文章は良いのですから、相当に面白い小説が書けるようになるのではないかと思います。
第17回の講評は以上です。プロの編集者たちの争奪戦となるような、目覚ましい応募作の登場を心待ちにしています。 |