●村上達朗
残念なことに、4回連続、該当作なしとなってしまった。第4回の万城目学『鴨川ホルモー』以降、受賞作が出ていない。『鴨川ホルモー』の出現によって、受賞のハードルが上がってしまったといえばそれまでだが、比較の問題でなく、「圧倒的な」作品がないのである。ぼくが求めるのは、「圧倒的な才能を感じさせる」作品だ。完成度は二の次でいい。
これまでの講評でも書いてきたとは思うが、ここであらためて、ぼくが面白いと思う作品とはどういうものかを説明しておきたい。
1 なによりも人物に魅力がある。いまの言い方をすれば、人物一人一人のキャラが立っている。
2 描写が的確で、無駄がない。
3 そのために、読者は自然に物語世界に入っていくことができ、人物たちに感情移入できる。
4 物語に起伏があり、つねに「どうなるんだろう」という感情を読者に喚起させる。
5 読み終わったあとで、初めて、こんなすごい小説を書いた作者はどういう人なのだろうと思わせる。
1から5までの要素がうまく溶け合ってくれた作品であれば言うことなしだが、しかし、何を置いてもまずは人物である。魅力的な人物を書けるかどうかだ。そのためには描写が的確でなければならない。人物を思い描くことができたら、次は人物を物語の中に放り込んでやる。作者の仕事はそれをどう効果的に的確に語るか、である。このとき、まかり間違っても、作者の心情吐露などはしてはならない。読者はそんなことは望んでいない。作者は裏方に徹することだ。ここがわかるかどうかで、小説の輝きが俄然違ってくる。
ただ、こんなふうに一般化して書かれても、応募者の中には自作の出来に自信が持てず、人がどう評価してくれるかわからないという人も多いと思う。しかし、何度も書いていることだが、誰しも作者である以前に読者なのだ。一読者の目で自作を読む・評価することが「推敲」なのだと知ってほしい。その習慣が身につけば、作品の面白みも文章のクオリティも格段にアップするはずだ。あとは、自分を信じ、失敗を恐れず、ひたすら書く。そして、才能のすべてを注ぎ込めたと思える作品ができたら、そのときはぜひぼくに読ませてほしい。
以下、受賞には至らなかったが、収穫と思える作品・気になる作品がいくつかあったので、その感想を短く述べる。
神谷こうじ氏「14歳の万有引力」は文章がすばらしく、文句のつけようがない。反対にダメなのは、物語を頭で作ってしまっていることだ。作者(の考え)がしゃしゃり出て、人物と物語世界を壊してしまっている。また「空を飛ぶ人」という設定は凡庸で、使うにはかなりの小説的工夫がいる。作者はまだ若く、小説は「頭で作るもの」という誤解から自由になれれば、もっともっと面白い小説が書けると思う。期待しています。
円内十字氏「或るヤンキーの一年」はタイトルがよかった。期待して読み始めたが、中身は「あれ?」という感じだった。というのも、文章が知的すぎて、語り手である主人公が「ヤンキー」であるということに違和感を覚えてしまうのだ。「ヤンキー」が知的であってもいっこうにかまわないが、それならそうとわかる説得力のある設定が必要だろう。上記でいえば、人物、描写、物語の各要素のバランスが悪く、主人公に感情移入して読み進むことがむずかしかった。発想には面白みがあったのに、残念だ。
赤星香一郎氏「赤鼬奇譚」は力作だった。特筆すべきは、超常現象が起こるときの描写で、その迫真力はすさまじい。全編この描写力で描き切っていたら、受賞作となったかもしれない。惜しむらくは、「こんな恐ろしい話はない」という「赤鼬奇譚」の実体がなかなかつかめないことだ。これでは読者を怖がらせられないし、そもそもどんな怖い話でも、最初にそう言ってしまっては、実体がわかると鼻白むものなのだ。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」である。小説は、話をなるべく小さく作ることが肝要。大風呂敷ではダメなのだ。
文月麻弓氏「金の鳥」はいわゆるBLテイストの小説で、期待して読み出した。文章はしっかりしている。いちばん大きな問題は外国(それも架空の)を舞台にし外国人を登場人物にしていることだ。こんなことを新人作家がやってはいけない。ファンタジー小説を除き、日本人作家の小説で外国を舞台に外国人を主人公にした小説がどれだけあるか。ほとんどないと思う。あったとしても成功作をすぐに挙げられないほど、小説として難しいのだ。漫画ではできることでも小説では不可能ごとに近い。それほど難しいことをベテランでもないデビュー前の新人がやる理由がどこにあるだろう。また、文章を整えることに精力を使い過ぎたか、人物たちが精彩を欠く。このさい、小説は人物、を肝に命じてほしい。
三島征爾氏「電子の蝶は乱れない」は前回の応募作「電子の泡」の改稿作である。前選考委員たちの指摘をふまえ、それらをすべて改善して、まったく違う構造の作品にしてきた。その心意気には感じるものがあった。(独りよがりな表現も散見するが)文章は硬質で、描写も丁寧、「類例のない」ものにしようとする熱意が作品からも執筆姿勢からもうかがい知れる。ただ、前回作のバランスの悪さが完全に解消されたとは思えなかった。サッカーとスタンガン少女がどうしても結びつかないのだ。別々の物語を力ずくでねじ伏せようとして失敗している。つまりは、まだまだ物語を頭で作っているのだ。スタンガン少女の新たな設定に関して、ある有名な漫画に先例があることも、まずかった。他がすべてうまくいったとしても、この一点だけで本作を受賞作にはできない。
岩崎万里子氏「みじめな気持ち フジヨシからの電話はなかった」もタイトルがよかった。達者な筆遣いで、17歳の「みじめな」少女たちを描いているが、ぼくは感情移入しようとして、はねかえされ、最後までどうしても少女たちに寄り添えなかった。その理由は文体にある。一人称と思って読み始めると、三人称なのである。章ごとに人物が入れ替わり、それがすべて「一人称と思って読み始めると、三人称」という書き方なのだ。視点のひんぱんな移動が読者を混乱させ、感情移入を阻害する。小説は、一人称なら一人称で、人物の視点を固定して最後までいかなければならない。三人称にするにしても、できるだけ視点は固定する。章ごとに視点を変えるという書き方は、外国のサスペンス小説などに多いのだが、非常に読みにくい上に、小説の書き方としてはきわめて安易で、やるべきではない。視点を作者の都合で変えられるなら、どんなことでも説明できてしまい、「わからない」ことから生じるサスペンス、面白みが殺されてしまう。また、頻繁に視点を変えられると、読者はその都度、感情をリセットし、新たな気持ちで人物に入り込まなければならなくなる。読みにくいことこの上ない。どうしてこんな書き方をするのか。書きやすいからだと思う。書きやすさに逃げず、主人公を決め、主人公を中心に、視点を変えずに丁寧に少女たちを描いていったなら、気持ちのよい作品になったはずなのに、とぼくは残念に思った。
以上、当該作者のみでなく、今後の応募者のためにと思い、感想を述べた。孤独な作業の支えになれば幸いだ。次回こそ、『鴨川ホルモー』を超える作品に出逢えることを念じつつ、講評を終える。
出よ、超弩級新人!
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