●村上達朗
ようやく新たなる才能が見つかった。才能の原石が見つかったと言うべきかもしれないが、いずれにせよ、そのことがぼくは嬉しい。叶泉氏『お稲荷さんが通る』には、文章に勢いがあり、リズムがある。村上春樹の言う、グルーヴ感がある。そして、想像力の飛躍がある。読み出してすぐ、「ええっ!?」と驚く展開が待っている。人物が生き生きとして、舞台を闊歩している。きわめて映像的である。文明批評的でありながら、くすりと笑わせる小市民的(視点に立った)ユーモアも忘れない。なによりいいのは、語り口が朗らかで、小説が外に向けて開かれていることだ。だから、読んでいて気持ちがよい。作品としての欠点は、物語の作り込みが甘いことだが、それは今後の改稿で修正されていくと思う。久しぶりに出現した才能に、どうかご期待いただきたい。
以下、受賞作以外に、気になった作品がいくつかあるので、その感想を短く述べる。
『とびらびと』の神谷こうじ氏は、二度目の応募である。前回の『14歳の万有引力』は頭で作った小説とぼくは指摘したのだが、その指摘に応えるべく書かれたのが、今回の作品だろう。文章はそつなく平明で、主人公に教育実習の大学生をもってきたのも悪くなかった。だが、こう書いては失礼だが、話の構造が『鹿男あをによし』に似ているために、比べるとどうしても見劣りしてしまう。校舎裏の異次元空間も、意外性に乏しく、人物にも魅力を感じなかった。全体に小説世界に想像力の飛躍がないせいか、話が小さくまとまりすぎており、中編の題材を長篇で書いているように見える。荒削りでもよいので、もっと飛躍のある、破天荒な話を読ませてほしい。
高月野乃氏『東京ケリスタ』は、一見奇妙な三角関係、四角関係を描いていて、その点では面白みがあるのだが、社会を向いた書き方をしていないので、客観性がなく、頭で作っているような感じを受ける。登場人物たちが本当にそこで生活している気がしないのだ。作者の思想を登場人物たちに反映させようとしないで、人物たちをもっと自由にさせてほしい。そうなれば、物語世界に葛藤や深みが生まれて、より面白みのあるユニークな作品ができたのではないかと思う。
遠山ふう氏『箱庭の雲』は、母を事故でなくした十六歳の少女の一人称小説で、未熟な年代の等身大の視点が、最初は好ましく思えた。だが、読み進むうちに、そうでなく、これは大人の視点で書かれている小説だと思った。最後に行くにしたがって予定調和的で、誰もがいい人になっていくからだ。完璧に等身大の視点で書いていれば、もっとサスペンスフルに、もっと面白く書けたのではないか。主人公の感情表現はベタで、読んでいてやや気恥ずかしい。そんなところにも、等身大の視点のぶれが感じられ、残念に思った。
伊藤真呼氏『阿呆どもの夜明け』だが、会社の中の人間関係の話はそれなりに面白いのに、なぜ主人公に作家志望者をもってきたのか。読者はどうしても、主人公の立場に作者の立場を重ね合わせてしまう。文章も安定しており、全体に破綻なく書けているだけに、題材の選び方を間違わなければ、とこれも残念に思った。青春小説は自分を中心に置きがちだが、そこをぐっとこらえて、別な環境の別な人物たちの物語にしたほうが、書きたいことが書けるものなのだが。
この『阿呆どもの夜明け』のように、今回の応募作では、作家志望者を主人公にした作品が目についた。小説家になりたいという人は、作家志望者を題材にしてはいけない。既成作家が書くのとは違い、自意識過剰の罠に陥るか、読み手に生半可な知識を指摘されて終わるのがオチだからだ。デビュー前の新人は、自分とはかけ離れた、まったく別の人物の物語世界を描くべきなのだ。何度も書いていることなのだが、小説家の仕事は、そうした自分以外の世界を描くことなのだということに、早く気づいてほしい。
では、私小説はどうなのだと不審に思う人もいるだろう。たしかに私小説は「自分を描いたもの」以外の何ものでもないわけだが、問題はそうして「自分を描いたもの」に、読者がお金を払ってくれるかどうか、である。無名の人が「作家志望者である自分を描いたもの」があったとして、そんなものにいったい誰がお金を払うだろう。商品にはならないということだ。商品にならなければ、デビューはできない。つまり、作家デビューにもっとも不利な題材で勝負するには、それを跳ね返すだけの力量と創意工夫が要るということなのだ。デビュー前の新人には、そんな不可能ごとにうつつを抜かさず、自分以外の世界に目を向けてほしい、とぼくは思う。物語の豊饒な世界を描きたいなら、迷わずそうすべきだと、ぼくは思うのだ。
以上、今後の応募者の参考にと思い、感想を述べた。
次回も、さらなる出来映えの作品を期待しています。 |