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枡(ます)の中に亀がいた。
枡といっても、道路の縁にある雨水枡(うすいます)のことである。三十センチほどの四角いふたを開ければ深さ一メートルほど穴があり、雨水とヘドロが溜まっている。それを年に二回スコップでかきだすことが市で決められている。ひとつの区で三万個以上ある雨水枡をスコップを使って一個ずつ掃除していく。そんな単調で孤独なバイトだった。
そんな仕事の最中、ヘドロから出てきたその亀は、居心地が悪そうに首を出したり引っ込めたりしている。すぐにすっぽんであることに気づく。
市場で働いていた時に殺した数多(あまた)のすっぽんが化けて出たのか。そんなことを思ってしまうほどの突然の出会いだった。市場の時に染み付いた習性で甲羅をひっくりかえして雄雌の確認をしてしまう。目方一・二キロほどの養殖の雄であると思われる。市場価格で四千円ほどのものだ。きっと近所の魚屋から逃げ出してきたのだろう。
「お前もはぐれもんだな」
枡の中から突然に外の世界へと引き上げられてしまった亀。今までの世界が安息に満ちていたとは思えないし、閉ざされた枡の中ではいずれは死を迎えるしかないだろう。しかし、突然開かれた世界を前にして、亀はただ首を出してはオドオドするのみである。
受賞の知らせを聞いた時、なぜかその亀を思い出してしまった。
死を待つのみの世界の中では、何もかもがどうでもよくなっていく。そこから脱け出そうにも、その穴はあまりにも深く、そして暗い。
枡から突然、世界へと放り出された亀はどこに行くだろうか。
僕は望んでこの場所に立った。開かれた世界の先に何があるかなんてわからない。ただ、二度とあの場所には戻らないと誓い、今は進むのみだ。
受賞、心より感謝いたします。
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叶泉(かのう・いずみ):
1978年愛知県生まれ。高校中退。その後、職を転々とし、三十歳を目前にして小説を書きはじめる。『お稲荷さんが通る』で第9回ボイルドエッグズ新人賞を受賞。
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