![]() |
||
|
|
マンスリー・エッセイ ■11月9日月曜日 |
|
|
はじめに パソコン不景気へのカンフル剤、「iMac」が登場し、アップルが一躍注目を集めている。そういえば昨年は消えゆくアメリカン・ドリームの象徴としてやはり注目を集めていた。 アップルが新製品を発表したり、開発計画を取り止めたり、決算が赤字だったり黒字だったりするたびに、世界中で十数万の人々が一喜一憂している。日頃、パソコンの話題なんかとりあげない新聞、雑誌がセンセーショナルな見出しを掲げる(米国の一部の地域ではこうすることで新聞の売り上げがあがるそうだ)。 なぜアップルはこれだけ大勢の人の感情に訴えかけることができるのか? 理由は人によってさまざまだろうが、私が一喜一憂するのはアップルの製品のディテールを通して、その裏側で葛藤する人々の姿を思い描いてしまうからかも知れない。あるいは、Mac専門のジャーナリストとして、実際に舞台裏にいる人たちを目の当たりにしてきたからかもしれない。 自己紹介が遅れた。私は(株)アスキーの月刊MacPowerおよびMacPeopleを中心に執筆活動をしているジャーナリストだ。Boiled Eggsのご厚意で月に1度、雑誌にはかけなかったこぼれ話を「Apple ここだけの話」として書かせていただくことになった。「なぜ、アップルだけが」を一緒に探る手がかりになればと思う。 Apple創設前後からパソコンに興味を抱きはじめ、特にアップル製品には強く惹かれていた。高校入学後はなぜか学生であるにもかかわらず、Mac関連の記者発表会の招待状を受け取っていた。学生服姿で発表会に赴いたことも何度かある。その後、米国の大学に留学したが、1990年の夏休み、日本に一時帰国したのをきっかけに創刊したばかりの(株)アスキー、月刊MacPower誌でアルバイトをし、それがきっかけで同誌で記事を書くようになった。同誌では、米国在住歴を生かして、たくさんの海外取材もさせていただいている。こうした幸運な経験を通して、私はこの9年間、アップル社の歴史の表と裏とに接することができた。
#1 アップル、CEO物語
「アップル、奇跡の復活」の立役者は、同社創設者で現暫定CEOのスティーブ・ジョブズだ。よく雑誌に出てくるこのCEOというのはChief of Executive Officerの略称で、日本語では『最高経営責任者』と訳される。その名の通り各部門を統括する副社長(Vice President。米国企業では部門ごとに副社長がいる)や財政を司る最高財務責任者(Chief Financial Officer、CFO)、実際に経営戦略を執行する最高執行責任者(Chief Operating Officer、COO)といったエグゼキュティブ・オフィサーをとりまとめ、その頂点に立つ役職だ。 ちなみに米大統領もVice Presidentが1人しかいない点こそ違うが、米政府のChief of Executive Officerと呼ばれる。 ただし、現在、『暫定CEO』を務めるスティーブ・ジョブズはかなり型破りなCEOで、本来のCEOの役割とは離れた部分での活躍も目立つ(だいたい、1年以上も『暫定』であり続けること自体型破りだ。業界では彼がこのまま半永久的に生涯暫定CEOとして活躍するだろうという見方も強い)。 ジョブズCEOの活躍ぶりは専門の雑誌に任せて、ここではアップルの過去のCEOの功績と役割を紹介したい。 アップル最初のCEOはマイク・スコットという人物であった。アップル最初の製品であるApple ][を売っていた時代のCEOだ。ただし、彼はアップルの歴史書でもよほどよく調べられたものにしか登場しない。アップル日本法人でも彼の存在を知らなかったほどだ。以前、(今はなき)同朋舎の『WIRED日本版』でジョン・スカリー、元アップルCEOのインタビューという仕事をいただいた。この時、同誌編集者がアップルにスカリーが何代目のCEOかを訪ねたところ「初代」という答えがかえってきたらしい。 Apple ][は私にとってもあこがれのパソコンだった。だが、Apple ][の時代、ガレージから世界的コンピューター会社を築いた2人のスティーブ(スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック)の伝説や、Apple ][で革新的ソフトを生み出した何人かの天才プログラマーの話は耳にしても、マイク・スコットの名を耳にした記憶はあまりない。 私が知る範囲でマイク・スコットが行ったもっとも偉大な功績は、スティーブ・ジョブズをLisaの開発プロジェクトから外したことだ(LisaはアップルがMac発表の前年にデビューさせた世界で初めてグラフィカル・ユーザー・インターフェースとマウスを採用した市販コンピューターだ。Macの5倍程度の価格で、ビジネスにすぐに役立つ統合型ソフトがつき、IBM PCの独占が始まりつつあったビジネス市場をターゲットとしていた)。 ゼロックス社の研究所でグラフィカル・ユーザー・インターフェースを目の当たりにして、Lisaの開発を思いついたのはジョブズであった。それだけに彼は同グループの開発を指揮できるものと思いこんでいた。しかし、マイク・スコットはジョブズが若すぎることや気性が激しすぎることを恐れて、彼をアップルの起死回生がかかっていたLisa開発チームから外した。ジョブズは当然、激怒した。この怒りとLisaへのライバル意識がMacをあそこまで完璧な製品に仕上げたと言われている。 Lisaチームを外されるやいなや、彼はMac開発チームを乗っ取り、海賊旗を掲げ、人並みはずれたこだわりと完璧主義をつらぬきつつ、Macの開発を進めた。 マイク・スコットはLisaやMacの誕生を前にして、突然、アップルを去っている。 夢多き時代をつくったジョン・スカリー アップルの2代目(そしてもっとも息の長かった)CEOは筆者の敬愛するジョン・スカリーだ。アップルがLisaを発表した当時、彼はペプシ・コーラで有名なペプシコ社を経営していた。30代以降の世代は彼の活躍を二度、目の当たりにしている。一度目は日本のテレビでも放映されたペプシ・チャレンジ(一般の人々がペプシとライバル商品をのみ比べるというテレビCM)であり、二度目はMacの発表である。 Macは紛れもなくスティーブ・ジョブズの落とし子だ。彼のビジョンとこだわりがなければMacは誕生しなかった。だが、それと同時に、スカリーが安泰だったペプシコ社を離れ、アップルのCEOという冒険的な職務をとらなければ、Macはあそこまでの成功を収めなかったかも知れない。 ペプシコ社を離れる意志のまったくないスカリーを執拗に説得したのはジョブズである。「このまま一生砂糖水を売り続けるつもりか、それとも一緒に世界を変えるチャンスをものにするのか」という最後の口説き文句はあまりにも有名である。 スカリーは辣腕経営者だったが、コンピューターに関しては無知だった。だが、技術や発明に興味のあったスカリーはジョブズが熱弁するパーソナルコンピューターによる革命に大きく心を動かされた。ジョブズはこの辣腕経営者からマーケティングや経営のノウハウを学ぼうとしていた。2人はお互いの最高の理解者となった。「アップルのリーダーはただ1人、スティーブと私です」というのは当時のスカリーの言葉である。 スカリーにとって不幸だったのは、自分にコンピューターの世界を教え、後のアップルの経営者に育て上げようとしていたジョブズを自ら解雇しなければならなくなったことだ。この後、まるでこの事件に祟られたように、アップルの歴代CEOは次々と悲惨な末路をたどっている。 この不幸な事件に関してはさまざまな説明や解釈がある。ジョブズを信望するアップルファンの中には、この一件のために今でもスカリーを最低な人物と決めつけている人がいる。ジョブズ自身、この一件で未だにスカリーに悪印象を持っていることをたまに感じさせる。ジョブズの復帰で盛り返した昨今のアップルを見ると、彼らの言い分は正しいのかも知れない。 だが、スカリーがCEOを務めた10年がなければアップルはここまで有名な会社にならなかったし、もしかしたらアップルもMacも存続できなかったことを忘れてはならない。 創設当時のアップルが掲げていた目標は、「優れた技術で世界を変えること」だった。1人1台のアップル製コンピューターで世界を変えることは、紛れもなくジョブズの理想だった。世界を変える道具が「優れた技術」であったことは、もう1人のアップル創設者、スティーブ・ウォズニアックの功績が大きい。ただし、この「(コンピューター)技術」というのは少なくとも最初の数年のスカリーにとってはまったく未知の分野だった。 だが、そういうスカリーだからこそ、アップルのもう1つの目標を体系づけることができたのかも知れない。アップルのもう1つの目標は、「難しい技術を人に使いやすく変える」というものだ。Macはこの目標を実現するのにうってつけの製品だった。スカリーは、使いやすくなったパソコンはハンディキャップを克服する道具としても有用であることに着目した。 この時代、アップルが出版し、スカリーが序文を書いた「Independence Day」は、パソコンを身障者たちがハンディキャップを乗り越えるための道具として紹介したおそらく初めての書である。 スカリーはパソコンのハンディキャップ克服効果は何も身障者だけのためのものではないと考えていた。数々の名スピーチを行ったスカリー自身、内気な性格やどもりというハンディキャップと戦う1人であった。 スカリーの「使いやすい技術」という理想はどんどんと高まった。コンピューター技術に関する知識も身につけ始めたスカリーは1988年、彼が夢想する2000年頃のアップル社製コンピューターを映像化し、Knowledge Navigatorとして発表した。 業界中に衝撃が走り、以後、多くのコンピューター会社がこれを真似てコンセプトビデオをつくったが、Knowledge Navigatorほど熟考された製品はそう見あたらない。 Knowledge Navigatorが衝撃的だったのは、コンピューターをわれわれの日常の中に非常にうまく溶け込ませていたからだ。Knowledge Navigatorの中で登場する個々の技術は決して真新しい発想ではなく、実際に研究の始まっているものや、実現間近のものも多かった。素晴らしかったのはそうした個々の技術が見事に調和していたことだ。 ビデオは数本つくられていた(3本とも4本とも言われている)。しかし、スカリーの退社後のアップルは、そのなかの1本しか見せないようになっていた。筆者がもっとも気に入っているビデオには言語障害を持つ子供とその母親の対話が描かれていた。 スカリーの時代のアップルは夢に満ち溢れていた。 アップルをよく知る人々は、Macの向こう側に未来の夢を垣間みることができたからこそ、他社製品の倍近い価格に関わらずMacを買い求めたのである。 スカリーはKnowledge Navigatorを実現することなく、1993年、突然解任される。この悲劇に関してはベストセラー書籍、ジム・カールトンの『アップル』がその冒頭で詳しく描いている。 スカリーは結局、Macと運命を共にした。Macの登場直前にアップルに入社し、MacのCPUである680x0の未来にかげりが見えると、次なるMacを求めてインテル製CPUで動くMac OS(コード名:Star Trek)とIBMやモトローラ社と協同で開発したPowerPCで動くMac OSのプロジェクトを軌道に載せた。結局、Star TrekはPowerPC版Mac OSに道を譲ったが、それはスカリー解任後の話である。 解任直前のスカリーはKnowledge Navigatorへの貴重な第一歩となるはずだったNewtonの開発に全力を費やした。Newtonの登場から5年間経つが、私は今もってこのNewtonを越える設計のコンピューターは登場していないと固く信じている。不幸な運命をたどったNewtonについてはまた機会をあらためて紹介したい。 シェア拡大にとりつかれていたスピンドラー スカリーに続いて、アップルのCEOとなったのは、スカリーがその右腕として絶対の信頼をおいていた、マイケル・スピンドラーだった。 スピンドラーは誰にも負けないほどの愛社精神を持っていた。マスコミがアップルの業績を市場シェアで評価するようになった時代のCEOで、Macのシェア拡大には強い執着心を持っていた。 アップルのブランドを広めようと、積極的にマスコミを利用したスカリーと対照的で、スピンドラーのマスコミ嫌いは徹底していた。CEOを務めた3年間、新聞雑誌にスピンドラーのインタビューが載ることはほとんどなかった。 彼は何よりもスピーチが苦手だったのではと私は推察する。 スカリーと比べて、スピンドラーが行った講演はどれも退屈だった。スカリーのような未来に対するビジョンも伝わってこず、ただただアップルがどれだけすごいことをなしとげたかを熱弁する。最初のうちは、ものすごい気迫と意気込みが伝わってくるのだが、強いドイツ語なまりで何を言っているのかを聞き分けるだけで苦労する。ようやく耳が慣れてきた頃には、話の収拾がつかなくなっている。 最初のうちはスカリーにならって大きなイベントのスピーチを自ら行っていたスピンドラーだったが、任期の後半には他の副社長や重役にスピーチを任せることが多くなった。 このおかげで、スピンドラーの時代のアップルでは、CEO以外のヒーローが何人も登場した。 私がすっかり感化された世界的認知心理学者ドナルド・アーサー・ノーマン博士(当時、アップルの特別研究員)もスピンドラー時代にアップルの顔役の1人となった。 ハンサムで統率力に秀でたゲリーノ・デ・ルカ氏(当時、アップル社ソフトウェア開発担当副社長)やOpenDocという新技術の開発を率先したカート・ピアソル、Power Macの開発を率いたジム・ゲーブル、Coplandの開発で中心的役割を担ったビト・サルバジオ、マーケティング担当役員だったサジーブ・チャヒル、アップル・パシフィックを統括していたイアン・ダイアリー、等々。当時のMac雑誌には、アップルのさまざまな重役の名前が毎月のように登場した。スピンドラーの時代はヒーローの多い時代だったのである。 話が横道にそれたが、スピンドラー自身の最初の晴れ舞台は、PowerPCを搭載した最初のアップル製品、Power Macintoshの発表会であった。Mac登場からちょうど10年目に登場したPower Macintoshは、RISCという技術に基づいた最新CPU、PowerPCを搭載し、発表会の舞台の上では圧倒的なパフォーマンスを披露してみせた。すごいのはエミュレーション(他のコンピューターの動作を模倣すること)技術の採用で、これまでのMacとはまったく異なるCPUを搭載しているにもかかわらず、これまでのMac用のソフトが問題なく動作したことだ。 RISC CPUを搭載したのは決してアップルが最初ではない。実はPower Macintosh発表の数年前には、やはりMacintoshと同じモトローラ社製680x0 CPUを搭載していたサン・マイクロシステムズ社がSPARCというRISCチップへの移行を果たしている。ただし、これは険しい道であった。まったく違うCPUを採用することで、サン社のワークステーションはこれまで育んでいたソフトウェア資産の多くを切り捨てなければならなかったからだ。 アップルのCPU移行はエミュレーション技術のおかげで大方の予想を上回るほどスムーズに行われたが、あまりにも高い互換性はPowerPCに最適化したプログラムの開発スピードを緩め、これが後に大きな仇(あだ)となった。 だが、Power Macはスピンドラーが期待していたほど、アップルの建て直しには貢献してくれず、その間にもスピンドラーが気にかけていたアップルの市場シェアは衰退の一途をたどった。 スピンドラーはMac OSをライセンスし、他社にMac互換機の開発を呼びかけざるを得なくなっていた。 なんとかシェアを拡大しようと、スピンドラーはもがいたが、事態はそれほど好転しなかった。結局、そうしている間にもアップルの資金繰りが悪化し、アップル役員会はこれ以上スピンドラーに任せておくことはできないと、彼を突然解任する。 アップル社内では何度も熱弁を振るったというスピンドラーだが、表だった活躍が少なかっただけに、彼がアップルにどれだけ貢献したのか、正確な評価を下すことはできない。 だが、じつは、日本のMacユーザーは価格の面で彼に負うところが大きい。 アップルは常に日本を世界で2番目の規模を持つ重要な市場としていた。だが、本国米国と日本国内とのMacの価格差はひどいものであった。単純な円ドルレート換算で価格を予想することは不可能に近かった。どんなに寛大に見積もっても決して納得がいかない価格だったのだ。アメリカで発表されたMacは、日本に入ってくると、まず漢字Talkという日本語OSのライセンス料7万円が無条件で加算されていた。日本はアップルにとって都合のいい金づるでしかなかった。 これを変えたのは何を隠そうスピンドラー本人だと私は聞いている。何かの折りで来日したスピンドラーは秋葉原でアップル製品の価格があまりにも高いことに腰を抜かした。Macのシェア拡大を信条とする彼にとってこれは許されざる背信行為だった。 帰国後、スピンドラーはすぐに日本のMac価格改定を発令し、日本のMac雑誌は初めてMacの価格を円ドルレートを通して評価できるようになったのだ。 スピンドラーはその後、米国でもいくつかの価格改定を行った。しかし、この薄利多売戦略がアップルを救いようのない財政難に導いたのは皮肉なことである。
悲劇の再建者、アメリオ スピンドラーの後を継いで、アップルCEOとなったのは再建屋の異名を持つ辣腕経営者、ギルバート・アメリオであった。 海を隔てた日本でも、スピンドラーの経営が限界に達していることは明白だった。この頃もアップルは新聞・雑誌を賑わしていた。だが、記事の内容は明るい未来を予見させるものでなく、決まって買収の噂か、アップルの失態を描いたゴシップだった(パイオニア、Mac互換機事業から撤退なんていう新聞記事もあったが、当時のパイオニアはアップルから新アーキテクチャーが発表されるのを待っていただけだった)。 アメリオのアップルCEO就任のニュースはインターネットを通して瞬く間に世界中に流れた。すでに世界中のマスコミがこれを既成の事実として知っていたが、アップルからはなかなか公式な発表が行われなかった。 なんとかこのビッグ・ニュースを最終締め切り間近の雑誌に載せようと筆者は画面いっぱいにいくつかのWebページを開き、数分おきにリロード(再読み込み)しながら徹夜をしていた。そのうち、前日までアメリオが経営を担っていたナショナル・セミコンダクター社のホームページに情報が掲載された。アップルのWebページに情報が載ったのはそれからかなり時間がたってからのことだった。この「遅れ」について私はあまり深く考えていなかったが、しばらくしてWallstreet JournalやMacWeek誌がその舞台裏をすっぱ抜いた。アメリオは、アップルの経営者という危険に満ちた役職を引き受ける報酬について長い議論を繰り返していたのだ。この舞台裏についても、先の『アップル』が詳しく描いている。 就任したばかりのアメリオの行動には驚かされることが多かった。米国で行われた最初の記者会見で、集まった記者団に自分の電子メールアドレスを公開し、アップルをどう建て直したらいいかの意見を募ったというのだ。 これまでどちらかといえば閉鎖的なイメージがあったアップルだけに、アメリオのこの行動はかなり新鮮に映った。 就任の翌月に、MacWorld Expo/Tokyoが開催され、アメリオは初めての公式スピーチの場に日本を選んだ。講演の内容もまたアップルが直面している問題に対して開けっぴろげで、筆者はかなり好意的に受けとめることができた。 アメリオはとにかく人の意見に耳を傾けた。海外のMac雑誌には、アップルをどう改革したらいいか、一つ一つの部署を聞いて回るアメリオの姿が描き出されていた。 講演があるたびに、Mac関係のジャーナリストやユーザーからどんな意見が寄せられているかを紹介した。 私自身も、アメリオに電子メールを送ったことがある。当時、アップルが抱えていた深刻な問題の一つは在庫問題だった。スピンドラー時代に乱造され、行き場をなくしたMacがアップル社内にたくさん残っていたのだ。アメリオは、こうしたMacを米国の大学やラジオ局に寄付していた。 私はアメリオに宛てた電子メールの中で、日本の山田村について書いた。当時、山田村は各家庭にコンピューターを置くという実験的な試みのために予算枠を設けていた。在庫を有効に活用するのにこれ以上の方法はないと私は力説した。長いメールだとアメリオが読み飛ばすのではないかと思い、最初に要点をまとめた後に追記事項としていくつか私見を述べた。アップルの第2の市場である日本においてもアップルの信頼が落ち続けていること、かつてスカリー時代に、米アップルがアメリカの小村を舞台に同じような試みをして、それが当時のマスコミに好意的に受けとめられていたことなどを。 驚いたことに、返事は数時間で返ってきた。 「貴重な意見をありがとう。山田村へのMacの提供はたしかに名案だと思う。あなたのメールはアップルの日本での事業を統括するジョン・フロイサンドに転送させてもらった。」 簡単な文面ではあったが、期待していなかっただけに返事が来た時にはうれしかった。そして、アメリオがユーザーからのメールに逐一目を通しているというのが嘘ではないことを悟った。 CEO就任半年ほどたったアメリオは、アップルはまだまだ未来がある会社だと訴えかけ、アップルに潜む問題の本質は経営陣がしっかりしていないことだと結論づけた。 彼はかつての同僚を中心に次々と新人重役をリクルートし、ほんの数カ月の間にアップルの経営陣を一新してしまった。中でも目立ったのはイタリア出身のマルコ・ランディだった。ランディは感情的で、ときにはつじつまのあわないことも言葉の勢いだけで通そうとするタイプの人間だった。アメリオがいう「大人の経営陣」というイメージに反していたが、私などはそれもイタリア人気質なのだと思いこんでいた。アメリオとも人間的にうまくやっていると思ったが、これがとんでもない誤解だったことはアメリオの著書、『アップル 薄氷の500日』を読んで初めて知った。 アメリオのCEO就任でアップルは順調に回復しているかに見えたが、アメリオは深刻な問題に直面していた。次期Mac OSとなるはずだった、コープランドの開発プロジェクトが破綻し、Mac OSの将来の展望が危うくなっていたのだ。 それでもアメリオは屈せず、一方でコープランドの開発を続けながら、もう一方で現行Mac OSにコープランドの機能を段階的に搭載していくという戦略を発表した(これは一方で、Mac OS Xの開発を続けながら、もう一方で、現行、Mac OSにその機能を段階的に搭載していく現在の戦略に似ている)。 だが、どんどんと先送りされるコープランド・プロジェクトに対するマスコミの風当たりは強かった。 就任1年後のアメリオはまるで別人のようだった。マスコミを嫌い、非難する場面もいくつか目撃した。かなりの心労があったのだろう。 結局、アメリオはコープランドの開発を打ち切り、他社のOSを買収することで決着をつけることにした。Be社に加えて、マイクロソフトやサン・マイクロシステムズなどさまざまな会社のさまざまなOSが候補にあがった。だが11月頃、Wall Street Journalがアップルがネクスト社の重役と会見という記事が載ると、その翌月にはアップルのネクスト社買収が発表された。 アップルを創設した伝説の男、スティーブ・ジョブズが返ってくる。士気が落ちていた当時のアップル・コミュニティーにおいてこれほどうれしいニュースはなかった。 だが、この決断がその後アメリオに悲劇を招くことになる。 パソコン会社は数多くあるが、アップルほど多くのドラマに恵まれた会社は少ない。アップルの舞台裏では常に自分なりの高い理想と現実の狭間で葛藤している人々の姿がある。今後、月1回の連載を通してそうしたアップルの舞台裏の水先案内人を務められればと思う。 ■ |
||
|
Copyright 1998 by Nobuyuki Hayashi, Boiled
Eggs Ltd. All rights reserved.
|
||