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#10 青い鳥が吉野家から飛び立つ夜
BSE騒動で、牛丼が消えた。
好物というほどではないが、ときに無性に食べたくなる牛丼。その衝動に応えるように吉野家がそこここでチェーンを展開している。具に辛くない七味をたっぷり振りかけ、店員の目を盗んで紅生姜を山盛りにする。これが旨い。
いま吉野家の売り物は豚丼である。
豚のバラ肉を薄切りにして、牛丼そっくりに煮込んである。
朝、昼、夜とまともに食事が摂れなかった昨日。夜中に車を出して吉野家を探した。国道246号線。沿道の店だから駐車場がある。軽トラと古びたセダン。煌々と蛍光灯が照らす店内に先客が三人。ジャンパー姿の二人は軽トラ組、小太りのぱっとしない青年がセダンの客だろう。
「並」と言って豚丼を注文し、保冷ケースからお新香を取る。途中から折れないように注意して箸を割る。お新香に醤油は使わない。豚丼がくるまで手をつけない。
そうこうしていると豚丼が目の前に置かれた。丼がタレでベタついている。こういうときは指の思わぬところにタレをつけ、気付かぬまま何かに触れてえらい目をみる。たとえば車のハンドル。タレを避けるように丼の向きを変え、指先を舐める。ハンドルを連想したことで、気が重くなる。近頃ダッシュボードの一部が妙な具合に粘りだした。樹脂の劣化か、それとも掃除の洗剤が悪かったのか。古い車だからなにが起こっても不思議ではない。だいぶ前からフロントグラスのパッキングが割れているし、老体に鞭打ってエンジンを高回転まで回すものだからピストンの圧縮が抜け気味だ。
いよいよ車を買い替えなくては。
いくつかのディーラーで試乗車を運転した。ワゴンは嫌い。車はクーペか、クーペ味のセダンに限る。マツダのロータリー、スバルの水平対向エンジン、ホンダの恐ろしいまでに吹けあがる四気筒。ラテンの車にも乗った。胸がわくわくして、ディーラーに返すのが惜しい車ばかりだった。
渡されるままに受け取るものだから、カタログが手元に溜まる。期待感を煽る豪華な写真。美しい景色の中を風のように駆け抜けるニューモデル。テレビに颯爽とした車のコマーシャルが流れない日はない。ところで、これら広告の車はどこを目指して走っているのだろう。ブルーバードという名の車がある。青い鳥のチルチルとミチルのように、車は幸せを求めて走らせるものということか。で、その
行き先が夜中の吉野家
とはね。こんなことを考えていたら気持ちが萎えた。だったら、車なんて動けばいいじゃないか。金がないんだろ。でも、しかし。欲やら見栄やらであれこれ迷う。憂鬱だ。
箸が止まる。丼から視線を上げる。
新しい客が来た。女だ。茶髪で若づくり。携帯にストラップをじゃらじゃらさせている。カウンターから駐車場の様子をうかがうと、真新しい白いミニバンから男が降りて来た。店に入った男は女の隣に腰掛ける。女がビールを注文して、男も飲み始めた。男のほうがひとまわりも若く見える。
茶髪の若づくりがまめまめしく年下男の世話を焼いている。カウンターにこぼれた飯粒を紙ナプキンで摘み、ついでにコップの滴で濡れたカウンターを拭っている。店に入ってきたとき肩で風を切っていた男が、いまは子供みたいに飯を掻き込んでいる。「あのさー、あのさー」男の言葉は要領を得ない。でも女にはわかるらしく、「うん、うん」うなずきながら時折たしなめるようなことを言う。白いミニバンが走り着いた先での幸せのひとコマ。少しもうらやましくないが、悪い風景ではない。
ジャンパー姿の男たちが勘定を払い、楊枝をくわえて店を出て行く。仕事あがりなのだろう、背中が笑っている。キリキリと安っぽいセルモーターの音。ぼんやり暗いライト。段差でぴょこんと跳ねて、軽トラは出発した。これから家に帰り、寝ている妻や子供を起こさないように、そっと寝床に潜り込むのだろうか。
「家で食べるって言ったから、用意したのに」
翌朝、奥さんの機嫌が悪いかもしれない。
「悪い、悪い」
男は言い訳をしない。
「じゃあ、行ってくるよ」
「気をつけてね。遅くなるなら、電話ちょうだい」
こんな勝手な想像を、セダンの男の声が遮る。
「弁当、三つ」
男は追加の注文をすると、丼の横にマンガ雑誌を広げた。巻頭グラビア。胸の大きな女が挑発している。男は機械のようにゆっくりページを繰る。「おまちどうさまでした」店員がビニールの手提げに入った弁当をカウンターに置いた。男は二宮尊徳の銅像みたいにグラビアを眺めながら店を出て行った。弁当を待っている誰かのために、彼は車を走らせる。
私も丼を食い終え、勘定をして店をあとにした。歳に差のあるカップルは、まだ店を出る気配がなかった。車に乗り込み、エンジンをかける。ラジオが年金問題のニュースを読み上げる。246号線に車を出す。「皇太子様の雅子様に関するご発言が波紋を投げ掛けています」と女のアナウンサーが言った。騒ぎは秋篠宮殿下ご一家にも飛び火している。いやな話だ。やり切れない気持ちになる。
そういえば二十年くらい前、秋篠宮殿下が自動車免許を取られてニュースになった。たしか車は黄色いカブトムシのビートルだった。ビートルは皇居の庭を八の字に走った。千代田区千代田1の1番地を
いつまでもくるくる回る
ビートル。お濠の橋を渡り、街に走り出す気配はない。頭に取り憑いて離れないニュース映像を振りきろうと、ギアを二速に落としアクセルを踏み込む。年老いたホンダのエンジンは息を切らしながらも、私を前へ前へ押し出す。回転計がレッドゾーンを指す。
青い鳥には追いつけそうもないが、追い掛ける自由はある。
これが幸せというものかもしれない。
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