新人作家の新・食エッセイ
3月
17日月曜日
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 #100 時計のない家

 

 S君から携帯に突然メールが入って、日曜日の夜の九時に電話をするよと書いてあった。すべての男友だちというものがそうとは限らないだろうが、S君とはめったに意味のない会話はしない。したがって、まあなんとなく声を聞きたくなったよ、という程度であってもこんな予告メールが入るのだ。
 そこで予告があった日は、その時刻に合わせて夕飯も風呂も済ませて待っていた。ところがいつまで経っても電話が掛かってこない。S君は約束をやぶるタイプではないから、これは非常事態が起こって電話を掛けるどころではなくなったのだと思い、こちらから掛けるのはやめた。
 翌日、またメールが届いた。
 なぜ電話を掛けられなかったかというと、という釈明のメールだ。なんでも一歳半になろうかという息子と公園で遊んだら、疲れ果ててしまい、

ひどいぎっくり腰に

なってしまったというのだ。横になってうんうん唸るほかなく、電話どころではなかったそうだ。
 ドラマだな、と思った。喜劇だと笑ったわけでなく、S君にとっては災難だったけれど、S君とS家にとって忘れられない出来事になったろうなと感じたのだ。
 私の年老いた親は、未だに私の子供時代のことと当時の自分を鮮明に憶えている。それは世の中にとってはどうでもよいことばかりだけど、その時々の風景まで彷彿とさせる語り口で、小さな出来事を口にする。
 S君は四十歳を過ぎて若い奥さんと結婚し変わった。
 まず結婚するまでは子供が大嫌いだった。そのためになかなか結婚しなかったのではないかと思われるところもあった。
 そして彼は細部にこだわる男だった。スーツ一着にしても、吊しのものなどぜったい買わない。いつも決まったテイラーで仕立てていた。普段着もしかり。靴も彼なりのこだわりがあり、革靴以外を履いているところを見たことがない。そしてライターはジッポーのクラシカルな角形、帽子は銀座の銘店のものと決めていた。これらは年々、こだわりが強くなって行った。
 ところが結婚してしばらく経ってから会うと、ユニクロではなかろうがまあそういった店の服を着て、無帽で、靴はちょっと汚れたスニーカーだった。
 しかも子供と公園で遊びすぎた一件をよくよく聞けば、十分くらいのつもりが二時間近くにおよび、それで腰を悪くしたのだ。こんなこと以前の彼なら考えられない。
 S君が変わったことを悪いとは思わない。ようやく普通の男になったのだ。
 正月になると、S家から家族三人の写真を配した年賀状が届く。独身の頃は例年月並みな文字ばかりの年賀状だったのにである。家族三人の写真は親馬鹿と言えばそれまでだが、S家が子供を中心にして動いていることがよくわかる。このことを冷やかし半分に彼に言うと、反論するどころか、どこで、どうやって撮影したかまで詳細に説明するのだった。
 それはまるで私の親が語る過去にそっくりで、びっくりした。独身時代のS君にはスキューバダイビングの趣味があったのだけれど、ダイビングに行くたび聞かされた旅と海の話は、申し訳ないが壊れたレコードのようにいつも同じに聞こえ、彼にとっての歴史というものがまるで感じられなかったのにだ。歴史がないぶん、S君は物足りなさを感じ、自分の細部にとことんのめり込んでいたのかもしれない。
 赤ちゃんは年賀状の写真の中だけでなく、会うたび確実に成長している。着るものはもちろん、遊び道具やらなにやら、次々と買い換えないとならない。はいはいもろくにできなかった子は、父親をぎっくり腰にするくらい活発になった。S君が変わったと書いたが、夫婦共々、子供と日々刻々と変わっているのだろう。
 この辺りの感覚が子供がいない私たち夫婦には理屈でしかわからない。私たちだって、白髪が増えてきたとか、目の調子が悪くてこれは老眼かなどと変化はある。しかし、退行もしくは停滞という感じである。
 変な喩えかもしれないが、

私たちの家には時計がない

ような気がするときがある。S家にとって赤ちゃんは人生の時計だ。夫婦の時間の推移を、赤ちゃんの成長がくっきりと描き出す。我が家においては、時計はくるくる律儀に針を回しているけれど、昨日と今日と明日は明確な差がない。
 私は四十歳を過ぎていて、結婚した年齢を考えると十数歳の子供がいても不思議ではないのだが、初めの妻の意見に圧され子供をつくらないという選択をした。そして数年前に同じ歳の今の妻と再婚したことで、子供はいなくて当然の人生を歩むことになった。
 こうなったことに後悔は今更なく、状況を受け入れて生きるべきだと考えているから、S家を羨んでいる訳ではない。けれど最近、人生の時計がないことを、ちょっと寂しいというか虚しく思うのだ。
 このことと関係しているのかわからないが、『作家の犬』というアンソロジーに私が獅子文六と飼い犬の関係の一文を書いてからというもの、私と妻は犬の話を頻繁にするようになった。我が家の暮らしに犬がいたら、という仮定である。この本に登場する人物と犬は、家族そのものの関係を営んでいる。話をしながら私は、飼い犬に手が掛かるだろうが、その犬が我が家に歴史をもたらしてくれるかもしれないという夢をぼんやり抱くようになった。
 そうこうしているうちに妻は、保健所で処分されそうになったところを救い出された雑種犬の預かり主とインターネットで連絡を取るようになった。まだ飼うという決断はしていないが、このまま連絡を取り続ければ、いずれ我が家に犬がやってくることになりそうだ。
 赤ちゃんと犬は違う。
 だけど、家族が増えることで我が家に人生の時を刻む時計が現れるかもしれない。
 変化を待望しながら、犬を受け入れ家族が増えることにまだOKを出していない。人生を刻む時計のない生活に慣れすぎ、私は臆病になっているのかもしれない。

本連載はこれにて最終回です。長らくご愛読くださり、ありがとうございました。

 
 
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