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#15 天使の分け前
型が崩れ始めた古いソファーに横になり、トマトとチーズの味を考えていた。
駅前スーパーの特売トマトとフレッシュなモッツァレラチーズのサラダ。今夜の夕食である。チーズは甘くてさわやかに粘っこく旨かった。味付けに使ったフランスのゲラン産のハーブソルトもローズマリーの香りがほどよく相性がよかった。しかし、トマトは味気なかった。たしかにトマトの味はした。果汁もたっぷりしていた。が、香りがないしプラスチックみたいな歯触り。
チーズとゲランの塩の素晴らしさをまえにして、国産の実力がかすんでしまったのか。
だからといって、不満たらたらたらなわけではない。
オーディオでブライアン・イーノの曲を安楽に聴いている。環境音楽の祖ともいえる現役の音楽家。静かに電子音とも自然音とも判然としない音響がリビングルームを満たす。
何かがいつもと違う。夕食の後味のことではない。音楽にいままで聴いたことのないリズムが含まれている。アンプを高級にしたとか、スピーカーを買い替えたなんてことはない。だからまず耳を疑った。しかし、リズムは絶えることがなかった。
カーテン。そのあたりにリズムの気配があった。
窓側へにじりよる。
耳を澄ます。雨音。降るともなくやむともなく夜空から落ちてくる水滴。雨が地面を、窓をひっそりと叩く。リズムの不思議が解けた。
まさに環境音楽である。オーディオを切る。
雨音の変化を楽しむ。
無関係な点と点であった雨音が、しだいに関係性を持ち始める。
リズム。勢いが増す。谷底から吹き上げる風音。
明日も降るのかな。朝から雨だと出掛けるのが面倒だ。着ていく服を考えなくちゃならない。大降り、小振り、霧雨。蒸し暑さ、涼しさ、肌寒さ。そんなこんなの服選び。苦手な順列組み合わせ。
明日のことは面倒になって、考えるのをやめる。なんとかなるさ。
また耳に神経を集中させる。
雨音の連続性が増していく。距離、位置、強弱。二次元的だった雨音は三次元的になり、私を取り囲む。
雨音にもいろいろある。
秋だな、と思った。
カレンダーはまだ八月。しかし、きょうのは秋の音だ。
強い陽射しに騙され真夏の気分でいたが、夏はひたひたと去ろうとしている。トマトが不味くなるはずだ。
それにしても、季節の変化が早過ぎないか。梅雨と思ったらもう夏で、秋のはしりの雨が降り出した。NASAは地球の公転が加速している事実を隠している。そんなことは有り得ない。ただ私が歳を取っただけだ。
なぜ歳とともに時間の感覚が早まるのか。永遠に解けない問い。
長過ぎて、しまいに厭きがくる夏休みが懐かしい。
ん? 違う。夏を厭きずにすむのだから、これは喜ばしいことではないか。
なあんだ。歳を取るのも悪くないじゃないか。
二十四節気。立春とか、今頃だと処暑なんて日がある。
一年間を十二カ月に分けるだけでは足りず、二倍にするなんて。せわしく季節の移り変わりを感じる年寄りが考えついたに違いない。ちなみに太陽暦で処暑は八月二十三日くらい。九月八日あたりが「白露」にあたる。
白露。雨音と穏やかな湿気に、白露を感じるあたり、二十四節気を考案した老人に私はかなり近づいているのかもしれない。
時計を見る。降り始めて四時間が経っていた。夕食の食器を洗う。シャワーを浴びる。歯を磨く。メールで礼状を書く。ドアに錠をかける。門灯を消す。一日を終わらせる儀式。
ベッドに入り、サントリー白州十二年のキャップを開ける。
ショットグラスに1ジガー。琥珀色の液体から針葉樹の森が香り立つ。
十二歳か。人間ならまだ子供。夏休みの宿題に右往左往してる頃。しかし、モルトとしては中堅からベテランの域に入る年頃である。
山梨県北巨摩郡白州町。静かな森の中の蔵。樽の中の彼の十二年間。
ウイスキーには天使の分け前というのがある、と蒸留場の人たちが言う。原酒は仕込んだ量より年々減っていく。堅固に見える樽も寄せ木にたがをかけただけ。微々たる隙間からアルコールと水分が蒸散する。無駄に減るのでない。これが熟成に不可欠なので蔵の天使が飲んでいる、と表現するのだ。十二年ものともなると、樽の中にぽっかり空間が空く。
加藤文はまもなく四十年もの。人生にも、天使の分け前があるような気がしてきた。日々も緻密でありながら樽のように隙間があって、我知らぬところで天使が分け前を取っていくのではないか。で、時が速く過ぎ去るようになる。しかし、こちらは熟成にはまだほど遠い。
ツーショット、スリーショット。酔いが回る。
おやすみ。目覚めたとき、また明日が始まる。
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