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#19 庭を捨てる
休日の朝だった。呼び鈴が鳴った。歯磨きを途中でやめて玄関を開けると、見るからにマイホームパパとやんちゃっ子という様子の二人が立っていた。
「あのう、お宅の桜のことで――」
名乗るまえにわかった。桜についての苦情といえば、裏庭に接している家の婿さんと息子にきまっている。前夜、颱風が通り過ぎた。桜の葉が裏の家に散り、窓のガラスに張り付くさまが目に浮かぶ。案の定、葉っぱが飛んで来たと言う。
「枝を切ってくれませんか。……少しで結構なんですが」
目に遠慮の色が浮いている。
今年は猛暑。いつもより桜が繁ったので、こちらも気にはなっていた。
「申し訳ありませんでしたね。なんとかします」
私は頭を下げ、ドアを締めた。去年はこの家のおじいさんが来て同じことを言った。すぐさま枝をばっさり落としたが焼け石に水だったか。
私は結婚とほぼ同時に、住宅街の中の売れ残りの土地を格安で買って家を建てた。十二年前のことだ。庭は赤い山土に覆われていた。雨が降れば沼ができ、乾けばひび割れた。これを休日ごとに整地し、妻の提案でバラを植え、ミモザを植え、梅を植え、最後に桜を植えた。
木はなかなか育たない。
変化は三年目くらいから現れた。割り箸みたいにひ弱だった苗がいつのまにか生意気盛りの中学生みたいに急成長した。すると、木々に鳥が集まるようになった。親分格は威勢はいいがおつむの薄いヒヨドリ。スズメはもちろん、オナガやムクドリ、メジロにホトトギス。鳥は敷地の境界線なんて関係ない。どこかの庭や公園で食べた木の実をお腹に詰めて、我が家にやってきてフンをする。
いつしか植えた憶えのない木が芽吹き、ぐんぐん成長した。庭はさながら遊歩道の樹林帯のような趣になった。
季節ごとの花。実り。夏は直射日光をふせぎ、冬は落葉して土地を肥やし、赤土はふかふかの黒土になった。桜は二階の窓の高さまで伸び、満開ともなると窓一面に朝日を照り返しまぶしいくらいだ。
我が家は琳派ばりの屏風絵の世界だが、花びらが散り、落葉するとあって裏のお宅は桜公害に悩まされている。
どうもこの問題は元から断たないとならないようだ。
決めた。桜を切り倒そう。
いつ決行しようかとカレンダーを見る。
忘れていた。離婚一周年だった。
去年、何の諍いもないまま離婚届に淡々とハンコを打って、夫婦の関係を断った。
「気に入らないものは捨てていいからね」と彼女は身のまわり品だけを持って家を出ていった。
それからの半年は彼女と関係のあるものを捨て続ける日々が続いた。私は使わなくなった家具から、彼女の帽子や洋服にいたるまで捨てた。不動産やお金に関する後始末では、司法書士や税理士を駆けずり回った。
これですべて捨てきったつもりだったが、
庭が残っていた
ことを忘れていた。
桜はもちろん。梅干しに使う梅。春の到来をつげるミモザの大木。鳥が運んできた木。それぞれに思い出がある。庭は夫婦の十一年間そのもの。いっそのこと庭木を全部切り倒してしまおう。
庭をまっさらにして、割り石を敷き詰める。大改造だが、コンピュータだってこんがらがって動かなくなったら、OSを入れ替えるじゃないか。
庭の工事費は高いと評判に聞く。
男と女が別れるにはあれこれお金がかかる。しかも、クルマがポンコツになり新車に買い替えたばかり。とうぶん通わざるを得ない心療内科の薬代は風邪や腹痛と比べケタ違いに高い。なんやかんやで財布の中はすっからかんのかん。いやいやこれはお金の問題じゃない。再出発の総仕上げ。鳥たちにはかわいそうだが、気持ちは浮き足立ってわくわくし始めた。
広告用に工事前・工事後を写真に撮らせたら税込み工賃の端数を全部まける、という業者があった。相場の三分の二という安値。しかも防犯灯をサービスすると言う。話がうますぎる気もしたが、調べてみたら組織がしっかりした会社だったので任せることにした。
残る問題は工事の間の車の置き場所である。カーポートが庭への出入り口になっているのだ。
すぐ近くに空き地がある。もともと一帯の土地を持っていた大地主がほったらかしている場所だ。アパートやら駐車場やらたくさん所有して手も目も回らないという噂。だから昔の少年漫画に出てくるような正真正銘の原っぱだが、無断駐車は気がとがめる。そこで空き地のお隣さんに地主の居所を教えてもらった。町外れで酒屋をしているという。善は急げと、交渉に出掛けた。
毎年町内に配付される名入りの住宅地図を片手にT酒店を目指した。地図は縮尺が狂っているうえに、町は山を切り開いた起伏のある地形なので平面上で最短距離に見えても、実際は大回りということが往々にしてある。その例に漏れずいつまでたっても目的の酒屋に近づかない。
そうとうの古参住人とひと目で解る老人が道端にいた。私は訳を話し、近道を聞いた。
「T屋さんなら、きょうは臨時休業だ。行ってもシャッター閉まってるよ。ほんとだって。いま前を通ってきたばかりだもの。家に連れてってやるよ。あんたひとりで行くよりゃ、俺の口添えがあったほうがいいだろ」
一気呵成に言って、どんどん歩いて行く。
T屋を営んでいる大地主のお宅はそこから目と鼻の先だった。
奥さんが応対に出た。旦那さんは外出中らしい。
「たった十年くらいまえに越してきた人なんだってさあ。近所のよしみってことで、よろしく頼みますよ」
老人は威勢よくまくし立てるとさっと踵を返した。礼を言う暇さえなかった。
上品な奥さんに来意を告げる。
「明日、主人から連絡させますわ」
笑顔に携帯電話の番号を告げ辞去した。
翌日、携帯電話が鳴った。旦那さんからだった。
「話は女房から聞いたよ。いつから停めてもいいよ」
「真似をして無断駐車する輩が増えるとお困りでしょうから、クルマに理由を書いた紙を貼ることにします」
「そりゃあ、いい考えだ」
ほっとして携帯電話を切る。これで庭の見た目がすっかり変えられる。苦情も来なくなる。私は私のまま何も変わらないとしても、しばらくの間は物珍しくて気分も晴れるに違いない
ふと
「たった十年くらい」
という老人の声が脳裏をよぎる。
木々がご近所の迷惑になるほど繁った。別れるには遅過ぎたと思っていた。が、その月日が「たった」だったとは。
紅茶を飲みながら、老人はこれまで何を手に入れ、捨ててきたのか思い巡らす。
茶葉を入れ過ぎたらしく、紅茶はいつもより苦い味がした。
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