新人作家の新・食エッセイ
1月
26日月曜日

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 #2 バゲットを買いに

 

 バゲットには騙されっぱなしだ。
 フランスパンの長い短い、細い太いには規則性がある。生地を長くかたちづくれば細く、短くすれば太くなる。長く細ければ皮の比率が高くなって、香ばしく歯触りが楽しいパンになり、短く太ければ中のやわな部分(クラム)が主体のパンになる。バゲットは細身で長身のボーイッシュな女の子みたいなかたちをしているが、味わいもその印象を裏切らない。太っちょのパリジャン、バゲットとパリジャンの中間のバタール(合いの子)、バゲットより細いフィセル。いろいろあるけれど、私はバゲットが好きだ。
 しかし、まともなバゲットを売っている店はなかなかない。
 まず、バゲット(杖)と名乗っていながら太っちょなのは論外。つぎに、プロポーションは合格でも、食パンみたいな生地でつくったのは却下。有名店といえども、見掛けに騙されてがっかりすることがすくなくない。だから、思いがけなくおいしいバゲットに巡り合うと、とても得した気分になる。
 サイゴンのバゲットは旨かった。
 寝苦しい夜が明け、金色の陽射しが古びた都会を照らしはじめる頃。まるで運動会の玉入れ競争みたいなカゴを背負った若者が、大通りをせっせせっせと早足で行く。カゴにはしっかり焼き色のついたバゲットが詰まっている。若者はひょいと弾みをつけて、パン屋の軒下にカゴを下ろす。早朝とはいえ湿り気を帯びた亜熱帯の空気に触れ、フランスパン特有の皮がパリパリ音を立てる。彼より年嵩の男たちが飛び出してきて、バゲットを大急ぎで店頭に積み重ねる。次から次へカゴを背負った若者がやって来て、積み重ねるそばから売れて行く。ここでは、バゲットを使ったバイン・ミーも人気だ。
 バイン・ミーは

ベトナム風サブマリンサンド

だ。バゲットを半分に切って、縦に切れ目を入れ、レバーペーストを塗り、ニョクマムをかくし味にした様々な野菜を挟み込む。麺や飯の屋台店に混じって、どんな田舎でもバイン・ミーは売られている。でも、サイゴン一うまいパン屋のバイン・ミーともなると、そんじょそこらの店とはひと味もふた味も違う。
 口をめいっぱい開けてかぶりつく。サイゴンの空気や喧騒が、新鮮なバゲットの香りといっしょに鼻に、舌に飛び込んでくる。パリパリ、シナシナ、シャキシャキ。おいしくて、楽しくて、頭がぼうっとする。食べ終えたあとも、テーブルに崩れ落ちた皮を指先でかき集めて口に放り込みたくなるくらい、バゲットそのものが旨い。
 このパン屋の工場を覗くと、よくしなる青竹みたいな痩せた男がふたり働いていた。
 餅のような生地を丸めて、伸ばす。表面にカミソリで切れ目を入れて、釜に入れる。釜から出した熱々のバゲットは、簀の子の上にざっと広げる。職人気質とかこだわりとか、大袈裟なものはなにもない。これが旨さの秘訣だとでも言うように、職人はただただ機械のように働いていた。
 しかし、いくらサイゴンのバゲットが旨いからといって、朝食のためだけにベトナムまで出かけるわけにはいかない。そこで、週末になると車を出し、川ひとつ隔てた隣りの区までバゲットを買いに行く。
 パン・ド・コナ。ここのは正真正銘のバゲットで、理想的なプロポーションをしている。抱えあげるだけで、香ばしい小麦の香りがする。口触りは軽く、無駄な味がいっさいしない。開店から十年が経ち、天然酵母の、クラシックスタイルの、と珍しいパンも増え、そのいずれも完璧だ。
 清潔で温かみのある店は、客が数人入るといっぱいになってしまう。店員も横歩きして行き来している。しかし、壁で仕切られた向こう側に、たっぷりと厨房がつくられているらしい。「らしい」というのは、仕事ぶりを見せるこれ見よがしなガラス窓が壁にないからだ。
 トレードマークの黒いキャップをかぶった主人が、厨房から焼き上がったパンを持ってきて、さっと引き返す。お客におべっかを使ったり、店内を眺め回して一服したりする暇はないのだろう。いつだったか店員の手がなくて、主人がレジ打ちをしたことがあった。さすがにパンの扱いは手慣れたもの。手際よくバゲットを細長い紙袋に滑りこませたものの、レジのキーを打つ指使いはおぼつかなかった。
 数年前パンブームが起こったとき、ご多分に漏れずパン・ド・コナもグルメ誌に紹介され、デパートに進出した。しかし、私好みのバゲットも、店も、主人もなにも変わることがなかった。
 そしていま、スウィーツブームなんだそうだ。

洋風の甘いもの

がもてはやされるようになって、ろくにバゲットも焼けないパン屋にさえ、ケーキもどきが並んでいる。テレビを点けたら、バブル起業家みたいな菓子職人が出て来て、あまりの気持ち悪さにチャンネルを変えた。職人は黙って、あたりまえのものをつくっていればいいと思うのは、私だけだろうか。

 
 
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