新人作家の新・食エッセイ
1月
10日月曜日
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 #24 ある脇役の死

 

 雨音で目が覚めた。
 あまりの寒さに布団の中でぐずくずしてから起き出し、コーヒーを淹れるためキッチンに入る。湯がたぎる音に気を取られているうちに、雨音はやんでいた。窓の外を見ると雨は雪に変わっていた。
 年末の住宅街は静かだ。厚い雲の上を通りすぎる米軍機のジェット音だけが微かにした。コーヒーと、欠かすことのできない薬を飲み、煙草を一服する。暖かな静岡で暮らす姪たちに、雪が降りだしたことをメールに書いて送る。デジタルカメラで雪の写真を撮って添付しようかと思ったがやめた。
 ――ヨコハマは雨が雪になりました。
 この一行で十分である。想像する雪のほうが、写真より幾倍も冷たく美しいことだろう。
 ガウンを羽織ったままサンダルをつっかけ、新聞を郵便受けに取りに行く。あまりの寒さに駆け足で戻る。タイを襲った大津波のニュースがきょうも一面に躍っている。新聞は薄く、年末年始大安売りの折り込み広告が厚い。これは毎年のことだ。あまり読むべき記事はない。
 
  グッバイ名物オルガン('04.12.29 朝日新聞朝刊)
 
 囲み記事の見出しに手が止まる。
 どこかの聖堂の古いパイプオルガンが取り壊されるのかと思ったら、「ヤンキースタジアムで37年 元演奏者レイトンさん死去」という小見出しと、階段のように重なった電子オルガンの鍵盤に手をかけ曖昧に微笑む痩せた老人の写真があった。記事を読む。
 エディ・レイトン氏は享年77歳。死因などは公表されていない。ドラマの挿入歌などを手掛けた後、NBAのニックスなどで18年間演奏。その後67年にヤンキースタジアムにオルガンが設置されると演奏を任されたとある。昨秋、引退。これまでに世界200カ国で公演。発売したアルバムは計20種類、300万枚を売り上げた。とあるが、レイトン氏の名を聞くのは初めてだ。ちなみになんでも売っている日本のアマゾンドットコムでは、エディ・レイトンの名前でCDは見つけられなかった。
 スタジアムのオルガンと言えば、選手がフィールドに上がるときやホームランの後に流れる音楽のことだろう。いつの頃からか日本の野球もまねをするようになった。しかし、演奏者が誰で、その去就が伝えられたことは一度もない。
 それはアメリカのベースボール界でも同じではなかったか。37年も続けたことが珍しくて紹介されたのだろう。「名物」とあるから、アメリカのベースボールファンにはよく知られた人物だったのかもしれないけれど。
 レイトン氏の引退時のコメントを記事から引用する。
「素晴らしい年月を過ごせた。ワールドチャンピオンの指輪を五つ持っているオルガン奏者は世界中で私だけだろう。ヤンキースタジアムの景色と音は、いつも私の中にある」
 と実にあっさりしたものだ。しかし、彼がプレーに合わせ鍵盤を操り、その音色がスタジアムに響き渡るようすを彷彿とさせる。観衆のどよめき、選手の緊張が目に浮かぶ。それが、「ヤンキースタジアムの景色と音」なのだろう。
 これからは別の人物が、オルガン独特の横に長い椅子に座り、ヤンキースタジアムのフィールドを見渡せる高々とした場所で鍵盤に向かう。新しい奏者の紹介はない。奏者が変わったからといって、来シーズンのゲームに影響を与えることはないだろうし、松井やイチローが登場したときのような騒ぎになることもないだろう。
 今度の奏者は37年も続けることなく数年で、もしかしたらワンシーズンで、その座を別の人物に譲るに違いない。脚光を浴びる仕事ではない。報酬も多くないことは容易に想像できる。才能と野心のある音楽家なら、スタジアムで37年間もオルガンを弾き続けたりしない。決まり切った曲をゲームに合わせて弾くなんて、うんざりする仕事だろう。たとえ酔客が相手でも、ラウンジでアドリブのフレーズを奏で、クラブでジャムセッションをするほうが音楽家としてのよろこびがあるに違いない。
 レイトン氏は、意地悪く考えれば、腰掛け仕事を長く続け過ぎただけなのかもしれない。そのことに

音楽家として屈折した思い

はなかっただろうか。本当に素晴らしいばかりの年月だったのだろうか。
 新聞の記事はヤンキースのオーナーの弔辞で締めくくられていた。
「彼はヤンキースの大切なメンバーだった。優れた演奏家で、ヤンキースタジアムをより楽しい場所にしてくれた」
 わたしはオーナーのコメントより、訃報にふれたアメリカのベースボールファンの気持ちを知りたい。そこにエディ・レイトン氏がスタジアム専属の演奏家として生きた37年間の意味がある。
 初雪が勢いを増してきた。積もるかもしれない。
 手に取ったCDを棚に戻し、オーディオのスイッチを切る。
 きょう一日はスタジアムの賑わいと電子オルガンの音色を思い浮かべながら過ごそう。

 
 
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