新人作家の新・食エッセイ
3月
7日月曜日
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 #28 銭湯へ行く

 

 二月が終わろうとしていた。ファッション誌は春ものを特集し、店は「これが最後」と冬物一掃セールのチラシを撒いていた。化粧品は口紅など色鮮やかな商品の宣伝を始めた。しかし、庭のハナミズキのツボミはまだ固い。つくりものの春が、ほんものの季節を追い越して行く。
 気まぐれのように寒が緩んだ日も、水道の水は冷たかった。むしろ冷蔵庫の中のミネラルウォーターのほうが温かい気がした。風呂に湯を張ろうとしたら、なかなか温水が出てこない。水が冷たいからだろうと思った。数日後、

ついに温水が出なく

なった。給湯器が壊れたようだ。
 給湯器に「追い炊き機能」がついている。これで風呂桶の水を温めようとしたら、こちらも壊れていた。
 寸胴鍋やヤカンで湯を沸かした。湯を十分に用意したつもりだったが、湯浴みするにはまるで足りなかった。にっちもさっちもいかなくなり、冷たいシャワーで身体を洗い、石鹸を流した。風呂でのんびりするつもりが、これでは滝に打たれる修行僧だ。
 寒さで歯ががちがち鳴った。大急ぎで水気を拭いストーブにあたった。
 人心地がつくまで三十分はかかったろう。夜の十一時を回っていた。
 明日からが思いやられた。冷たいシャワーを浴び続けていたら風邪をひく。かといって、風呂に入らないわけにはいかない。なんとかしなけば。
 藁をもつかむ気持ちで、給湯器の取り扱い説明書にある番号に電話を掛けた。
「ご新規でしょうか。それとも修理でしょうか」
 夜更けだと言うのに、若い女の声がした。
 最近は録音の案内が少なくない。何番のプッシュボタンを押せと言われたあげく、「ただいまは営業時間外です。明日またお掛け直しください」と告げられるのではないか。ところが、ボタンを選べとは言わない。こちらの言葉を自動的に理解する新機軸のシステムか。疑いつつ「修理です」と答えた。「まあ、それはお困りでしょう。係の者にお繋ぎします」と電話の女が言った。
 電話口に出た修理担当者は、ガスは危険物なので二十四時間体制でやっていると言った。問われるままに故障の状態と機種名を答えた。
「お客様が対応できる状態ではありませんね」
「では修理をお願いします」
 と言ったあと、給湯器がすでに耐用年数を超えているうえに、法律で定められた部品の保有期間も過ぎていることがわかった。古い機種でも、いままでは部品を全国の営業所に問い合わせて探し修理していたということだが、直しても、別の部品が壊れる。お客は直した箇所がまた壊れたと勘違いしてクレームが絶えない。説明を尽くしても品質を疑われ別のメーカーに乗り換えられてしまう。だから無理な修理はやめたと言う。
「安全に関わることなので、新しくしたほうがいいですよ」
 給湯器は安くない。しかし、専門家に危ないと言われてはガス器具だけに恐ろしい。
「買い替えるしかないみたいですね」
 しばらくするとカタログと見積もりがファクスで送られてきた。工事は最短で三日後。機種をのんびり選んでいたら、いつ温かい風呂に浸かれるかわからない。
 翌朝早々に機種を決めて営業所に連絡した。工事日は家主の立ち会いが必要とあって週末を選ぶほかなかった。ほぼ一週間先まで、給湯器は使えない。
 こんなときこそ銭湯があるではないか。
 でも、タオルと石鹸を持ってふらりと行けそうな近所に銭湯はない。戸建てやマンションが居並ぶ新興住宅地だからだろう。いまどき風呂のない家はない。
 市街地図を広げた。私鉄沿線に飛び石のように残る下町に銭湯はあった。仕事の帰り道、途中下車するほかなさそうだ。
 銭湯のある町の駅で降りてみた。
 焼き鳥屋横丁の奥に銭湯はあった。すっかり角が丸くなった木札の鍵を下駄箱から抜いて靴を預け、番台でタオルとシャンプーを買った。古時計みたいな体重計がある。竹で編んだ脱衣カゴ。牛乳の冷蔵庫に、マッサージ器。そんな時代掛かった見掛けに似合わず銭湯は賑わっていた。富士山と浜辺と松を描いた壁の絵もペンキがツヤツヤしている。
 カランの湯を浴び、湯船に浸かる。ちょっと熱いが「ゴクラク、ゴクラク」の気分である。
 お客が湯船に入るたび、湯の中は順繰りに場所の譲り合いになる。金髪で強面の若いのもそっと移動する。湧き口の熱い場所は老人たちの特等席らしく、ここだけ動かない。この銭湯の流儀なのだろう。
 この特等席に、極彩色の観音様を背中一面に彫った老人がいて、にこにこお喋りしていた。かつてその筋の人だったのかもしれないし、昔は職人も大きな彫り物を入れたものだ。ツベルクリン反応の跡のような小さなガイコツを肩に彫ったパンク青年は、タオルで念入りに股間を隠し、そそくさと湯船からあがると、モヒカン頭を洗った。

湯船を一巡したら茹だって

しまった。
 なんだかこのまま電車に乗るのがもったいない気がして、横丁のモツ焼き屋に寄って串焼きで軽くビールを飲んだ。煙りがもうもうと立ち込める店で、髪のシャンプーの香りは瞬く間に油っぽいモツの匂いにかき消された。それでも嫌な感じはしなかった。駅まで冷たい風が吹く道を戻った。いつまでも身体がほかほかして、疲れた顔の勤め人を乗せた電車の中、ひとり愉快でたまらなかった。
 数日後、銭湯のある町の駅を居眠りして通り過ごしてしまった。
 家に戻り、また地図を見直すとクルマで十数分ほど行ったあたりに「スーパー銭湯」という聞きなれないものがあった。調べてみると閉店は深夜十二時。まだ間に合いそうだった。
 旅館とロードサイドレストランを合わせたような建物だった。広々した駐車場にクルマを停め、入店すると「入れ墨のある方の入浴をお断りします」の貼り紙。泡風呂とか、壺風呂とか、打たせ湯とか、何種類もの風呂に入り放題だった。面倒なのでありきたりの大浴場の湯船に浸かった。
 深夜なのに、それなりに客がいた。休日ともなれば満員になるに違いない。風呂からあがると、サロンのような場所でひと息つける。側にゲームコーナーがあった。子供が一心不乱に遊びに興じ、若い男と女たちがクレーンゲームで、縫いぐるみを取ろうと奇声をあげていた。
 まだ飯を食べていなかった。付属のレストランで「刺し身御膳」を注文した。高速道路のサービスエリアにありそうな箱膳だった。マグロの赤身はへなへなしていた。小さな蓋付きの椀は、フリーズドライの澄まし汁だろう。さっさと腹に収め、湯冷めしないうちに帰途についた。
 さて、新しい給湯器が着いた。風呂の時刻には早かったが、好奇心に勝てず風呂桶に湯を張った。最新型はあっという間に指定した通りの量の湯を満たした。便利で、銭湯の入浴料より安上がりなのは確実だ。
 晩飯は鶏を香草でローストした。スーパー銭湯の飯よりは旨かったが、焼き鳥横丁の串焼きには遠く及ばない気がした。

 
 
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