新人作家の新・食エッセイ
5月
9日月曜日
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 #32 犬と歩く

 

 この数年で東京は、また大きく変わった。
 お台場、六本木ヒルズ、新丸ビル、オアゾ、汐留と再開発されたところばかりではない。繁華街からすこしはずれた街も、ビルが変わり、店が変わった。行きつけのバーも古びたビルを追い出され、面倒な場所に移転せざるを得なかった。
 変わらないのは地下鉄の路線だけである。キップ売り場にある赤や青の線で描かれた路線図と駅名を頼りに、何年かぶりの駅に降り立つ。記憶通り出口を出たはずなのに、まるで雰囲気が違う。街ばかりか、ひとが違う。おっとりしていた街なのに、首から会社の身分証をさげ、疲れた顔に殺気を漂わせた勤め人が歩き回っている。自転車を漕いで行き来していた蕎麦屋の店員や、エプロン姿のお婆さんはいない。
 定食屋で食事をした。見覚えのある店員がいるにはいたが、サービスも料理の味もまるで変わっていた。経営者が変わったのか、それともこれが時流というものなのか。
 付き合いのあったデザイン事務所へ向かった。この数年でデザイナーはふっくら貫禄が出ていた。幼稚園に通っていた息子は中学生になったという。喋りはじめるや、たちまち以前の気分がよみがえり、予定より長居をしてしまった。
 デザイン事務所から駅に向かう途中、小路を一本入るとペットショップがあったのを思い出した。爬虫類や両生類など、おかしな動物が流行りはじめた頃にできた店だ。ところが行ってみると、店はおろか建物さえなかった。いかめしい会社のビルになっていた。
 このペットショップには

看板娘の狐

がいた。毎日店の前に繋がれ、人が寄って来ると太いしっぽを振っていた。狐は野生の動物で、ひとにしっぽを振ったりしないものとばかり思っていたから驚いたものだ。
 看板娘のかわいさにつられ、ここで陸亀を買った女の子がいた。
「飼いやすくて、ひとり暮らしにぴったり」
 と自慢していた。
 ところが縁日の亀みたいな大きさからみるみる育ってヘルスメーターくらいの大きさになり、やがてテレビみたいに重くなった。イグアナを買った女の子もいたが、手乗りだったのがミニ鰐のようになった。そのあとふたりが手に余る亀とイグアナをどうしたか、わたしは知らない。
 狐に騙されたのだ。お金をもらったと思ったら木の葉だったなんて話は、昔話に聞き飽きるほどある。
 それにしても、看板娘だった狐の行く末が気になる。元気に生きているだろうか。そもそも法律で飼うことが禁じられてはいないのだろうか。たしか野生の狐にはやっかいな寄生虫がいたはずだ。閉店と同時に、闇から闇へ処分されたかもしれない。
 ひとが飼うには、やはり犬や猫が適当なのだ。
 わたしは大の犬好きで、しかも血統書つきの洋犬より、和犬や雑種がすきだ。実家では犬を飼っていたが、いまは独り暮らしゆえ犬を飼えずにいる。だから散歩をしている犬と、飼い主の眼を盗んで挨拶をし、「調子はどうだい」と心で話しかける。どんな犬も、それに答えてくれる。犬はやはり飼い主の眼を盗み、「ダイエット中で腹が減ってまいっちゃうよ」などと表情を浮かべる。
 ハナミズキが満開の夜、タバコを買いに出ると一匹の野良犬が後をついて来た。たまたま同じ方向に歩いていただけかもしれない。飼い主がいないから、ゆっくりお喋りできる。立ち止まり、
「こんばんは。こういう匂いの者です」
 と目を見つめる。
 犬はクンクンとズボンの裾から股上までを嗅いだ。わたしは野良犬の顎の下を撫でた。
「こんばんは人間。あんた何してるの」
「タバコを切らして、買いに行くとこ。で、君は」
「見ての通り散歩だよ。昼間は首にワッカをつけたのが歩き回っていて、どうにも散歩しにくくてさ」
 野良犬が並んで歩き出した。飼い主のいない犬と散歩をするのははじめてではない。散歩といっても、犬の付き添いをするわけでも、犬をどこかに連れて行こうというのでもない。これが野良犬との

散歩の流儀

だ。気が合えば、同じ角を曲がり、電信柱の前で互いに自然と立ち止まる。
 野良犬はタバコの自動販売機の前で待っていた。アスファルトに腰を下ろし、後ろ足で首を掻いた。
「ノミだね」
「ノミのいる犬は嫌かい」
「いまごろ気にしたってはじまらない。さっき散々触ったよ」
 さてタバコは買った。どうするかと思っていると野良犬はこちらを仰ぎ見てから、遊歩道のほうへ鼻先を向けた。じゃあそっちに行ってみよう。遊歩道から公園、幹線道路を渡る橋、団地の脇の暗い道。かなり遠くまで行った。
「このままねぐらに帰るけど」
 と野良犬が目で言う。
「じゃあ、ここまでとしよう」
 わたしと野良犬はなにごともなかったように、交差点を別々の方向に別れた。
 家に来いよ、と心で呼びかけ歩き出せばついてきたかもしれない。だが、そのときではない気がした。月明かりの下、さっきと別の道を歩いて戻った。
 新築の一戸建てが並ぶ町。街灯の光が届かない暗がりに、見覚えのある太いしっぽが揺れた。もしや狐か、と思った。すると、ゆっくり全身が現れた。
 しっぽだけが狐そっくりの犬だった。脚がやけに長く、気取った歩き方をしている。自慢げに引き綱を握っているのは裕福そうな男だ。この犬とは目を合わせることなく通り過ぎた。
 寝入りばな、あの野良犬とまた会えるだろうか考えた。まぶたの裏で「縁があればね」と犬が笑った。狐はひとを化かすが、犬は化かさない。変わらぬ姿、変わらぬ眼差しで、いつか目の前に現れるような気がした。
 くれぐれも保健所に捕まるなよ。わたしは、わたし自身のために祈った。

 
 
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