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#34 驟雨の後
夕刻仕事を終えて表に出ると、いきなりひどい雨が降り出した。
来た道を戻るに戻れず、間近のビルの軒下に駆け込むと、傘を盾のようにかざし雨の飛沫から逃れようとするひとでぎゅう詰め。傘がない私は端で濡れるにまかせるほかなかった。
軒続きにあるガラス張りのカフェを見やるともう満員。客が立ち飲みのカウンターに二重三重の人垣をつくっている。わたしが割り込む余地はない。
カフェの隣、ビルの軒が切れた先に
寂れたラーメン店
があるのを知っていた。ぱっとしない味のラーメンと小皿料理をやっている店だ。ここなら混んではいないだろう。瓶のビールを注文して、通り雨をやり過ごすことにした。
猛雨の中をラーメン店に駆け込んだ。
店内に客はなかった。とりあえずビールと一皿三百円也のシナチクの盛り合わせを選び、食券を発券機で買って注文した。
雨がやんだら早々に退散するつもりで、歩道に面した窓際に座った。窓には目隠しの遮光シートが貼ってあるが、店内から表の様子がサングラスを掛けたように見える。
東南アジア訛の女の店員がビールとコップを持ってきた。
手酌でビールを注いだ。コップがくもっているうえに生臭い。一口飲んでみたが、もう飲む気がおこらない。臭いのはコップの洗いかたが悪くて脂が着いているためだろう。みるみるビールの泡が消えて行く。そうこうしていると、シナチクの盛り合わせがきた。縮れたレタスの葉が一枚飾りで敷いてある。割り箸を取って、シナチクを食べた。甘すぎる。しかもラー油が掛かっているから、おかしな味だ。
雨は勢いを増すばかりで、いっこうにやむ気配がなかった。いつの間にか、昼の会議のことをぼんやり考えていた。利害関係のある様々なひとが寄り集まった仕事の打ち合わせだ。責任を分担しあっているといえば聞こえはいいが、皆が自分のことだけしか考えておらず話が空回りするばかり。こんなことのために、朝六時に出社してあれこれ準備したかと思うと、がっくりくる。
「頑張りすぎないほうがいいですよ」
会議の後、メンバーのひとりがわたしに囁いた。その声が、いま頃になって陰気に耳の奥でこだまする。
「やりすぎると、組織の和を乱していると言い出す輩がかならず出てきますからね」
こだまは続く。
窓の外、猛烈な雨をものともせず、とても小さな折りたたみ傘をさしてひとり悠々と男が横断歩道を渡って行く。
(頑張るとか、そういう問題じゃないんだけどな)
と男の背中を眺めながら思う。
彼が渡りきると、また横断歩道から人影が消えた。
青から赤へ、また青へ歩行者信号の色だけが何事もなかったように変わる。信号の光が、窓に雨垂れのかたちとなって流れ、消える。
やりきれない気持ちになって、食べたくもない甘いシナチクを奥歯で噛み締めた。
店に駆け込んで十五分ほど経った。はじめて客がやって来た。格子柄のシャツが濡れていたが、大事に抱えてきたらしく、書店の紙包みはきれいなままだった。
「ビール一本。大盛りチャーシュー麺一丁。餃子一丁」
調理場で声がした。
シャツ姿の男は、手をハンカチで拭うとテーブルに本を開いた。遠目にも横書きの本とわかった。学術書らしい。チャーシュー麺と餃子がテーブルに並んだ。男は本を汚さないように、ラーメンと餃子の皿を注意深く何度も並べ替えた。それなのに頓着なくくもったコップでビールを飲んでいる。
まだ雨はやみそうにない。仕事の問題が頭を離れない。苛立ちと焦りが募る。店が陰気なせいか、終電に乗り遅れて、始発を待つような気分だった。いっそ紹興酒でも注文して、酔っぱらって時間を忘れたかった。けれど、こんな気分では悪酔いしそうだ。
また客だ。若いサラリーマンが四、五人。発券機の前でひと騒ぎし、席についてからも甲高い声で喋り続けた。合コン、上司の悪口、合コン、上司の悪口。聴きたくもない話題が堂々巡りする。たまらず耳を塞いだ。
店に飛び込んでどれくらい経ったろう。ビールはぬるくなり、メンマのレタスはラー油を吸って萎びていた。
ずぶ濡れになってもいいから店を出よう。
窓の外へ顔を向けると、すっかり雨はやみ、歩道に人通りがよみがえっていた。わたしは注文した料理を残して席を立った。
地下鉄は多摩川を渡り、家の最寄り駅へ。腹ぺこだったが、妻が仕事から戻るのを待った。
妻は間もなくスーパーの袋を下げて帰って来た。そして勢いよくキッチンに飛び込むやチゲ風のスープやキュウリのシソ和えをつくった。
ふたりで食卓を囲んだ。
雨上がりに虹を見た、
と妻が言った。
わたしには、空を見上げる余裕がなかった。
会議のことも、ラーメン店のできごとも忘れ、妻が語る虹の話に聞き入った。
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