新人作家の新・食エッセイ
7月
11日月曜日
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 #36 思い出カメラ

 

 棚から一枚の写真が出てきた。
 くすんだ緑色の霧に包まれたような、ぼやけた写真だ。
 牧草地の真ん中にまっすぐな土の道が地平線まで伸び、ぽつりぽつりと電信柱が立っている。この道のはるか遠くを二匹の黒牛が渡っている。空は晴れているのか曇っているのかわからない。曖昧な写り加減だから、アメリカの田舎を描いた水彩画のようにも見える。
 しばらく考えた。十五年前、沖縄で撮った写真だった。しかし、どこの牧草地の風景かどうしても思い出せなかった。
 でもわからないなりに、様々なことが脳裏によみがえってきた。
 写りが悪いのは、知人からもらった

子供相手のオモチャのカメラ

で撮ったせいだ。調子が悪いから捨てるというので面白半分にもらったのだった。
「買ったときはけっこう写ったけど、いまは五枚に一枚もロクなのが撮れないよ」
 彼は念を押すように言った。
 沖縄は広告のロケで出掛けた。このとき記録用の一眼レフとともにオモチャカメラを持って行ったのは気まぐれに過ぎなかった。五枚に一枚とやらの偶然を試してみたかったのだ。しかし仕事に追われ、オモチャカメラのシャッターを押したのは、よほど手隙のときだけだった。
 撮影は一週間に及んだ。三年も続いたシリーズ広告だったので、CMタレントのAと撮影スタッフは友だち同様になっていた。ロケ隊は同好会の合宿のように和気あいあいとした雰囲気だったが、天候に恵まれず苦労をした。
 その後シリーズ広告は沖縄篇を最後に打ち切られ、スタッフ全員が顔を合わせる機会は二度となかった。Aは数年経って週刊誌のゴシップ記事を賑わした後、芸能界を去った。
 そしていま、天候で苦労した沖縄ロケはとくに印象深かいはずなのに、記憶はとぎれとぎれである。テレビから姿を消したAを思い出そうとしても、顔かたちがはっきりしない。でも写りの悪い写真から、天気待ちの焦りや移動を繰り返した疲れの感覚が、もどかしくもありありとよみがえってくる。まるで十五年前の気持ちそのものが焼き付けてあるみたいだった。
 古いアルバムを取り出してみた。一眼レフで撮影した写真があった。牧草地でCMを撮影する一行がいた。草の葉一枚までピントのあった写真に、感じるものはなかった。他人が撮った写真を唐突に見せられた気がした。
 わたしの目は最新のカメラのように、ひとや風景を見ていない。気持ちの揺れに左右され、思い出はオモチャカメラなみにくすんだり、ゆがんだり、ピントがはずれるのだろう。
 オモチャカメラはもうない。いつ捨てたかさえ忘れてしまった。なんとなく寂しい気がした。
 棚から写真を見つけてひと月ほどして、カメラの量販店をひやかしていたら、中国製のカメラ「HOLGA」を売っていた。見るからにピントや露出がいい加減で、安っぽいプラスチックのボディーは光漏れをおこしそうだった。中国でも時代遅れになり、オモチャとして輸出しているのだろう。同じ売り場に、このオモチャカメラに取り付けるための、ポラロイド社がつくった大柄な専用アタッチメントがあった。
 ポラロイドのアタッチメントを取り付けるとインスタントカメラになる代わり、HOLGAのファインダーが隠れて覗けなくなる。構図なんて慣れればどうにかなるから適当に遊んでください、という開き直った組み合わせだ。
 ふと沖縄で撮ったぼやけた写真を思い出し、アタッチメントとあわせて買った。
 暇な休日、草だらけの空き地を撮った。炎天下に咲く赤い南国風の花を撮った。クルマに荷物を積もうとする妻を撮った。妻は走るタンクローリーを撮った。置物のビクターの犬を撮った。
 HOLGAはオモチャにしても、できの悪い代物だった。
 フィルムは優秀なプロ用のポラロイドフィルムを使い、画像は8.3センチ四方と大きい。しかし、すべてがぼんやりし、背景が崩れるように奇妙にボケる。また、レンズがとても暗いので空が雲ひとつなく晴れ渡っていても夕暮れどきのような写真になる。ファインダーがないから、もちろん構図は当てずっぽうだ。
 だが、思い通り写っていようといまいと、わたしはうれしかった。HOLGAで撮った写真を見るたび、捨ててしまったオモチャカメラを取り戻したような気がした。
 この日撮ったポラロイドは、

古いブリキの空き缶に

仕舞った。これからもHOLGAで写真を撮ったら、この缶に入れるつもりだ。すぐさま順番がばらばらになるだろうし、あるものは色褪せるだろう。
 これで構わない。それどころか、むしろ缶の中で写真が混ざりあい静かに劣化するのを望んでいる。
 いつの日か、缶の底からわたしを通り過ぎて行った気持ちが意図せず現れる。このときわたしは何を思うだろう。楽しみである。
 こんなHOLGAに、ひとつ困った点がある。ストラップを着けて首からぶらさげると、部品が外れて空中分解してしまうのだ。

 
 
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