新人作家の新・食エッセイ
10月
3日月曜日
新・きょうのお料理Back Number
きょうのお料理Back Number
About the Author
Mail to the Author
 

 


 #42 雨に泣く男

 

 台風が関東をかすめて通る、と天気予報が言っていた。日が暮れかかる頃になると、激しい横殴りの雨が降ったりやんだりを繰り返した。
 雨がやむのを見計らって、クルマで妻とスーパーまで買い物に出かけた。最初の信号でクルマが止まる前に、早くもワイパーを動かすはめになった。
 スーパーの駐車場は建物の裏手にある。買い物をするには、駐車場にクルマを停めて、建物の入り口までひと歩きしなければならない。
 妻と駐車場を出ると、道路脇の電柱の下で、とても若い男女が傘もささず立っていた。
 よく見るとあか抜けない感じの男の手に、

バイクのヘルメットがふたつ

握られていた。黒いメタリックは自分のもので、ベージュに淡い色の線が二本入っているのが女の子のものに違いない。彼女の黒く長い髪は、板のように白いブラウスの背中にはり付いていた。
「ここまで来たのに……送っていく」
 と男が言った。
「いい。自分で帰れるから」
 女の子は答えた。
 通り過ぎて振り返ると、女の子は住宅街の中のまっすぐな道を歩いていた。雨のカーテンに遮られ、彼女の姿はかすれながら消えて行く。男は女の子の後ろ姿を目で追っていた。さらに雨脚が増した。それでも男はヘルメットをふたつ握りしめたまま、その場を動くことがなかった。
 半時間は経ったろう。買い物を済ませて裏通りに出ると、雨はただごとではではない降りになっていた。あたりは夜のように暗い。しかし、ヘルメットを握りしめた男は、まだ電柱の傍らに立っていた。
 肩が震えていた。声なく泣いている。ヘルメットが、わたしたちがさっき見たときのまま握りしめられていた。黒ずんだ風景の中、二本線が入った女物のヘルメットだけが、やけに鮮やかに見えた。
 わたしと妻は大急ぎでクルマに飛び込み、エンジンを掛けた。駐車場からクルマを出してからも、ふたりのことが頭を離れなかった。
 わたしも長くオートバイに乗っていた。だから、バイク乗りの気持ちはわかる。
 女の子は、友だち程度の男のバイクに気軽に相乗りしたりしない。ふたりは友だち以上の関係だったのだ。だが、小さなヘルメットの真新しさと、使い込まれた男のヘルメットは、ふたりが付き合いはじめてから時が浅さいことを表しているとみていい。
 遠い記憶がよみがえる。
 わたしが二十歳になったばかりの頃だった。朝がまだ明けきらぬうちに、ツーリングの約束をやっとのことで取り付けた女の子の家まで、バイクを走らせた。ヘルメットは女性用が用意できず、知り合いから小振りな男物を借りた。
「どこまで行こうか」
「行けるところまで」
 湘南の海沿いの道をひたすら西へ走った。
「ここで停めて」
 伊豆の伊東あたりだった。街道沿いの喫茶店で、片思いの相手は化粧と髪を直し、ふたりで窓から見える海の景色を眺めた。そして、同じ道を引き返した。
 バイクはクルマと違う。カーオーディオもなければ、相乗りだから会話もできない。東京を発ち東京に戻るまでのまる一日、喫茶店で海を眺めたひととき以外ふたりはお喋りをしなかった。それでもわたしは、好きな女の子の気配を背中に強く感じ、海からの西日のきらめきを受け、うっとりハンドルを握った。
 夕暮れになって、バイクを女の子の家の側に停めた。
「ありがとう。また……」
 また──に続く無言に、二度目のツーリングはおろか、これ以上なにもはじまらないゾと天の声を聴いた思いがした。彼女が商店街の小路を曲がるのを見送ってバイクを反転させた。
 わたしはひとり暮らしのアパートに戻ると、埃をかぶったヘルメットをふたつ玄関に並べてシャワーを浴びた。悲しくはなかった。でも、むなしかった。ふられたんだゾと

天の声を聴かせる

ために、女の子はツーリングをOKしたに違いないと思った。ありったけのビールを飲み、勢いで眠りについた。
 その日が、彼女と会った最後の日になった。
 颱風の雨と風はいっこうにやむ様子がない。クルマでスーパーの並びにあるファストフード店の前に出ると、男のヘルメットと同じ色のバイクが一台雨ざらしになっていた。店に客の姿がないところをみると、彼の愛車だろう。男が戻ってくる気配はなかった。
 買い物から帰ったわたしと妻は、野菜や肉を冷蔵庫に放り込み、夕食の食卓を囲んだ。気付くと、いつの間にか日付が変わろうとしていた。
 寝入りばな、雨の中で泣いていた男のことがまた脳裏をよぎった。
(おやすみ、泣き虫ふられ男)
 あと二十年もすれば、すべては思い出に変わる。カミさんの買い物に付き合ってスーパーに行き、袋いっぱいに詰め込んだジャガイモや豚肉を運ぶ暮らしをするようになる。そして、ありふれたオカズで飯を食い、一日を終える。これは恋ではないかもしれないが、愛であることに間違いはない。
 愛は静かに、いつか君のドアをノックするだろう。
 わたしは、わたしたち夫婦の幸せについてだけ考えて、眠りにつこうと思った。
 このとき、妻の寝息はすこやかだった。

 
 
Copyright 2005 by Bun Katou, Boiled Eggs Ltd. All rights reserved.