|
#43 青いシート
秋雨が静かに軒を叩く音で目を覚ますと、朝の九時をまわっていた。新聞を取りに表に出た。休日の町は静まりかえっていた。新聞を読まずにソファーに投げ出しトイレに入ると、磨りガラスになった小窓の外が一面鮮やかに青かった。
どうしたことか、と窓を開けた。お隣に古くから暮らすHさん宅の、屋根の雨樋のあたりから敷地の際にかけて、青いビニールシートで雨よけがしてあった。日曜大工が趣味の旦那さんがなにか大物をつくろうとしているのかと思った。Hさんは日頃のんびりした性格だが、日曜大工となると目の色が変わる。晴れるのが待てなかったのか。しかし、ノコの音もノミの音もしない。その代わり、
シャベルで土を掘る
重く静かな音がした。
庭にウッドデッキでもつくりはじめたのかもしれない。庭の凹凸をならし、土台を埋める穴をそこここに掘っているのだろうと思った。
わたしは窓を閉め、トイレを出た。耳を澄ますと、部屋にいても土を掘る音が切れ切れに聞こえる。
朝食の食卓で、妻にHさん宅のもの音について話した。
「日曜大工でなかったら、木を植えているのかもしれないね」
と妻は言った。
そうかもしれない。苗床を掘るのに、雨水が流れ込んではうまくないとみて、シートを張ったのか。
それにしてもシャベルの音がいつまでも続く。深く、広く、一カ所を丹念に掘り続けているようだった。いやな予感がした。
「もしかして、ランディが死んだのではないかな」
「犬のお墓?」
「坂を上れなくなったランディを、Hさんが励ましながら散歩をしているのを見たって言ってたね」
「五日くらい前の夕方よ」
「大型犬は寿命が短いから……」
ゴールデンレトリバーのランディがHさんの家にもらわれて来たのは十年程前のことだ。まだ柴犬くらいの大きさの仔犬だった。あっという間に小柄なHさんより大きく見えるまで育ち、やんちゃ盛りの頃は散歩の度にわたしの家の玄関先まで押しかけて来て、「行ってきまあす」といった具合に跳ね回ったものだ。
だが、ここ一、二年ランディの姿を見る機会がめっきり減った。昼間散歩をすることがなくなり、辺りが暗くなる頃、疲れた表情でHさんと家に戻ってくるのをたまに見かけるだけだった。
ランディのことが気になって、Hさんの家の前まで行ってみた。まるで鑑識官が事件現場を隠すように、庭は青いシートで覆い尽くされていて、中の様子がうかがえない。
道端からシートを眺めた。
シートが外されるのを待っているのか。Hさんが現れるのを待っていて、事情を聴きたいのか。それとも老いたランディが物干しから顔を出すのを期待していたのか。自分でもわからない。
髪は湿り、まぶたから雨だれが流れ落ちた。
家に戻った。
わたしの想像は確信に変わっていた。厳重すぎるほどの青いシートと、忌中の家特有のひとを遠ざける雰囲気。ランディは死んだのだ。
昼になった。
窓の外を見ると青いシートのほんの小さな隙間に、白い花が揺れた。
「さよなら」
Hさんの奥さんの声がした。わたしも「ランディ、さよなら」とつぶやいた。
木を槌で地面に打ち付ける音。
墓標だろう。
ランディがHさんの家に来てからの十年を思った。
仔犬の頃、ランディは人なつこい犬だった。Hさんの家の二階の物干し台から首を出し、通りかかるひと皆に、犬なりの笑顔で「どうも」と挨拶した。
それが数年経つと落ち着いてきて、物干し台から外を眺める姿は、物思いにふける哲学者のようになった。
「やあ」
と声を掛けると「うん」とうなずき、また遠くを見やる。散歩に出掛ける方角を見ているのか、それとももっと先にある空の雲を見ているのか、犬とは思えない思慮深さが感じられた。
ランディが物思いにふけるようになった頃、わたしは小説を書きはじめた。それからは仕事が変わり、前妻と別れ、いまの妻と出会い、籍を入れた。
あっという間のような気もするが、とてつもなく様々なことが変わった。子供がいないHさん夫妻にとって、ランディは我が子同然だったろうから、わたしなどよりこの年月への思いはひとしおであろう。
墓標が立てられても、青いシートはそのままだった。H夫妻は憔悴しきって、シートを外す気力さえ失ったのだろうか。心配になり、またHさん宅の前に立った。木でできた背の低い門の上に、ランディの毛色に似た
黄色い洋菊
が横たえられていた。
我が家で昼飯の支度がはじまった。ホットプレートを食卓に出して、やきそばをつくった。わたしがさえない顔をしていたのだろう。
「娘を遠いところに嫁に出す親の気持ちと、似たようなものかもしれないわよ」
と妻は愛犬との永久の別れを言い表した。違う、と思ったが、わたしは笑顔をつくって麺をすすった。
■
|