新人作家の新・食エッセイ
11月
7日月曜日
新・きょうのお料理Back Number
きょうのお料理Back Number
About the Author
Mail to the Author
 

 


 #44 捨てられない自転車

 

 大学を出たばかりで横浜の下町に住んでいたとき、自転車を買った。低く構えたドロップハンドル、細いレース用のタイヤ、外れ止めのついたペダル、前後合わせてギアは十二段変速。意気込んで手に入れた本格的な自転車である。友人のSも、相前後して自転車を買った。ふたりで

ツール・ド・フランスばりの走り

で遠乗りを楽しむ目論見だった。
 何回Sと遠乗りに出掛けたか、いまとなっては思い出せないが、たしか最初のツーリングは脚ならしを兼ねて出掛けた根岸の丘行きだった。
 頂上を目指して、急な坂を一気に上った。てっぺんにたどり着いたとき、ふたりはへとへとだった。夕暮れがかった公園のベンチに座り、自転車用の水筒を買おうとか、やはり格好は度外視してもスタンドは取り付けたほうがいい、などといつまでも話しは尽きなかった。帰りは真っ暗な夜の坂を風を切って下った。
 水族館のある金沢八景の先へ、どこまで行けるか試したこともある。
 出掛ける前日、Sがわたしのアパートに泊まり込んだ。互いにやる気まんまんだった。夜は地図を広げてルートを確認したり、自転車の調整をした。朝は早起きして、ホットケーキを焼き、バナナを食べた。大まじめに、カロリーとか炭水化物の量など考えて、ツーリングに備えたのである。
 このときは行きの登り続きの行程でわたしがバテ、中盤でSの自転車がパンクをした。意気込みとは裏腹に散々な遠乗りになった。
 そして初乗りから十八年が経とうとしている。
 その後、わたしは横浜の北部に引っ越し、町中が坂だらけだったことから、レース用の自転車は使いづらく、クルマばかりに乗る暮らしになった。が、自転車をどうしても処分できなかった。
 Sも自転車に乗らなくなった。
 Sはこの十八年で引っ越しを幾度かした。「こいつ、置き場所に困るんだ」と言いながら、彼も自転車を捨てていない。
 過日、Sと電話をしていて話題が自転車を処分できない理由に及んだ。結論はすぐ出た。
 自転車に、思い出が染みこんでいる。風とか空とか、坂を上るペダルの重さ。バテて道端で休んでいるわたしを、タバコをふかしながら見下ろしているS。パンクした自転車を押して、修理道具が揃っている自転車屋を探しまわったふたり。場面、場面が、写真より鮮やかによみがえる。
 電話を終えた直後、もう一度、自転車に乗ろうと思い立った。
 ギアは錆び付き、タイヤは干からび、変速機はいかれたうえに、アルミニウムのハンドルから白い粉が吹き出している。これをすっかり元通りにするのではなく、十八年後のわたしに合った自転車につくり替えるつもりだった。
 タイヤのインチ数をひとつ落とし、タイヤは太めのものにする。泥よけをつける。ハンドルは一文字のバータイプに替える。フレームを磨き、ギアの錆を落とす。サドルの皮を張りなおす。スピードと実用性の折衷案だ。もしこれがうまくいったら、Sにも同じ改造を勧めようと思った。
 自転車屋は、こんな面倒な注文を請け負ってくれない。だから自分で簡単な完成予想図を描くことからはじめた。予想図を見る限り、難しい作業には思えなかった。
 さてはじめるか、と自転車のあちこちをメジャーで測った。すると、ブレーキを付け直すのに、フレームの一部を溶接でつくりなおさなければならないことがわかった。専用の工具が必要なこともわかった。わたしの手に余る作業ばかりだった。
 改造計画は予想図のまま、頓挫した。
 改造不能のレース用自転車と妻の自転車を並べてぼんやり眺めていたら、父が惜しみつつ手放した一台の自転車が懐かしく思い出された。
 父の自転車はフランス製だった。全体に黒くて、泥よけだけがクロームのメッキ。ブレーキもワイヤー式でなく、最近は見掛けなくなった鉄の棒をフレームのかたちに合わせて要所要所で繋ぎ、力を伝えるものだ。見かけは無骨で、ソバ屋の配達自転車にちかい。
 父は、休みの日ともなると部品に油を差し、馬の皮でできたサドルを丁寧に磨いた。ぴかぴかになると、
「出掛けるか」
 と母に声を掛けた。
 母も上手に自転車に乗る。
 父は母と自転車を連ねて出かけて行く。
 遊びの遠乗りではない。買い物、墓参りと目的があった。
 家に戻って来ると母は、
「お父さんたら、先へ先へ勝手にいっちゃうんだから」
 といつもこぼしていた。
 でも、ふたりは楽しそうだった。
 先へ先へ──の行き先はどこだったのか。目的の場所をはずれ、知らない道に入り込んだり、遠回りをしていたのではないかという気がする。「出掛けるか」は、父の母への

ツーリング出発の合図

だったのかもしれない。
 改造が無理なら、妻が乗っている小さな自転車と一緒にのんびり走れる自転車を買おうか、いま迷っている。
 猛スピードで、遠くまで行かなくてもいい。
 走り疲れたら、折り返して帰ればいい。
 坂ばかりの町を、自転車を押して歩いても、忘れられないものや出来事と出会えそうな気がする。
 また捨てられない自転車が、我が家に一台増えるかもしれないが。

 
 
Copyright 2005 by Bun Katou, Boiled Eggs Ltd. All rights reserved.