新人作家の新・食エッセイ
11月
21日月曜日
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 #45 小鳥屋がなくなって

 

 義母の家のチーコが逃げて、ひと月になる。
 チーコは珍しいほど青く澄んだ羽色をしたセキセイインコだった。あるひとが亡くなって、引き継ぐかたちで義母の飼い鳥になった。
 チーコは雄というだけで歳はわからない。ひとの口まねをするような芸もしない。しかし、義母によく懐き、義母が家を空けて帰ってくると、大喜びしてカゴの中ではしゃぎ回っていた。
 チーコが逃げたのは、秋晴れの日だった。
 いつもは風呂場でカゴの掃除をするところを、この日はベランダでやった。チーコは、空と風のにおいに誘われたのかもしれない。カゴのほんの小さな隙間をかいくぐり、ふいに外に飛び出した。義母がチーコの名を慌てて呼ぶと、空中でくるりと回転して戻ってくるそぶりをみせたが、また遠くへ行ってしまったのだそうだ。
 義母はベランダにリンゴやパンなどの餌を置いて、いまでもチーコを待っている。でも、戻ってきた気配はないという。
 しかたない、と諦め気味の義母だが、まめに世話をしていたチーコがいなくなり、気が抜けて寂しそうだった。チーコの代わりにはならないかもしれないが、セキセイインコをプレゼントしようと考えた。
 小鳥屋なんてものは、どこの町にも一軒くらいあるものだと思っていた。ところが、

小鳥屋がみつからない。

わたしの町は住宅街だからしかたないとしても、最寄り駅の周りにもなければ、近所のショッピングセンターのビルにもない。
 そういえばデパートの屋上で小鳥を売っていたような記憶がある。わたしは用事で新宿に出たとき、あるデパートの最上階まで上ってみた。折悪く改修中で売り場は迷路のようになっていたが、隅々まで探し回った。奇っ怪な爬虫類は売っていたが、小鳥は扱っていなかった。別の繁華街のデパートなら、小鳥を売っているかもしれない。足を伸ばしてみようかと思ったが、小鳥一匹になんだか大袈裟な気がしてやめた。
 小鳥屋という商売がなくなってしまったことが、すこし驚きだった。あるのは犬と猫を売る店ばかりだ。
 わたしが子供の頃は、小鳥屋は珍しくなかった。通学路に、商店街に、繁華街の一郭に、かならず小鳥屋があった。
 小鳥屋はその名の通り、小鳥とカゴと餌を売っている店で、犬や猫は相手にしていなかった。どの店も薄暗い感じで、店の前を通ると独特のにおいがした。店に入ると、天井までカゴが連なっていて、ブンチョウとかジュウシマツとかインコが鳴いていた。売り物か客引きか知らないが、キュウカンチョウを店先に出して、鼻に掛かった声でひとの言葉を喋らせている店もあった。
 そんな小鳥屋でブンチョウをつがいで買ったことがあった。社宅は犬猫禁止。幼いわたしがペットをねだって、親が根負けしたのだった。
 てっぺんに吊り金具がついたカゴ。止まり木。白い陶器の水浴び場。藁を編んだ丸い巣。そして、小さなブンチョウ。これだけで贅沢な感じがしたのは、わたしが子供だったせいかもしれない。
 生き物が家にいるのは楽しいものだった。
 このブンチョウのつがいは、よくタマゴを生んだ。タマゴはスーパーで売っているウズラのタマゴより小振りだった思う。ウズラのタマゴのように灰色のまだら模様がなく、真っ白でとてもきれいだった。一度も孵ることはなかったが。
 世話はカゴ掃除と餌やり。餌入れの中から粟の食べ殻を選り分けるのに、ふうっと軽く吹いてやればいいことを憶えたときは、自分がすこし大人に近づいたような気がしたものだ。そのうち一匹が死に、残りの一匹は逃げ出して、カゴはからっぽになった。しばらく、チーコを失った義母のように、ベランダに餌の菜っ葉を置いたものだった。犬を飼うようになるのは、十数年後一軒家に越して、わたしも一人前に散歩や世話ができるようになってからである。しかも雑種の貰い犬だった。
 小鳥屋のことが気になってからというもの、クルマで郊外を走っていると、思わずペットショップの看板に目がいくようになった。仔犬が黒々した潤んだ瞳で語りかけてくる看板がそこかしこにある。高さは家一軒分くらいあるだろうか。元来が動物好きなものだから、ペットショップに立ち寄ってみたくなる。
 しかし、いまどき仔犬は十数万円もする。
 命の値段だ、と言われれば納得せざるを得ない。
 しかし、十数万円の買い物は必需品の冷蔵庫などならいざしらず、なかなか贅沢だなと思う。でも、ロードサイドのペットショップはどこも大きく、駐車場は満杯である。
 とても若いカップルが、本気で仔犬を選んでいる姿がちらりと見えたり、何匹もの飼い犬の名をシールにして貼ったクルマが駐車場に留まっていたりする。
 ペットショップの繁盛に比べ、小鳥屋がなくなったのは、鳥を飼うひとがいなくなったからだろう。みんな暮らしが豊かになって、小鳥では飽き足りなくなったのだろうか。それほど小鳥は、つまらないペットだったのだろうか。義母の落胆ぶりを見ていると、そうとは思えないのだけれど。
 そんなある日、新聞に新規開店のペットショップのチラシが入った。犬はやはり十数万円で、扱いも大きく丁寧だった。小鳥は隅の方に〈特価品!〉四百九十円。
 時代の趨勢、犬流行りといえばそれまで。しかし、小鳥屋がなくなり、飼い鳥が特価品にまでされて、一抹の寂しさを覚えた。そして、なにかが世間から忘れ去られたのではないかと思われてならなかった。
 なにかとは、

ほどのよさ、のようなもの

だ。ほどよいものにある楽しさ、といったらいいのか。
 気のせいだろうか。

 
 
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