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#5 鮨と鳥追い
ひどいインフルエンザに罹り、高熱が続いた。
なんとかベッドから這い出て出社した日、早退もままならず残業をして会社を出た。何日もろくに食事を摂っていないので空腹だったが、食欲がない。電車に揺られながら、体が受け付けそうな食べものを考えた。
そうだ、鮨にしよう。
でも、こんな体調では鮨屋のカウンターに座れない。そこでスーパーのできあいを買った。がっかりするほどのものではなかったが、そこはやはり機械が握った鮨。味気ない食事になった。
機械の鮨と、職人が握る鮨は比べるべきものではない。
しかし、鮨くらい単純な料理はない。職人が手を加えることができるのは、酢飯の加減と仕事を加えたネタくらいのもの。新鮮なネタさえ仕入れられたら、職人に限らず機械にだって旨い鮨が握れそうなものだ。
ある人の紹介で新橋のXという鮨屋ののれんをくぐった。
若いきりっとした職人が鮨を握る店で、飯と刺し身の大きさが調度よく、気配りが隅々まで行き届いた店だった。でも、何を食べても旨いのだが、
ひと味足りない
気がする。そのひと味が何か、食事を終えてもわからなかった。
築地市場の場内にある「大和(だいわ)」は、文句なく旨い店だ。
場内という場所柄、仕入れがすばらしい。そのうえ炙ったり、煮たりの仕事が丁寧。ただし、評判が評判を呼んで客が増えすぎたことだけが難点だ。
大和にあって、Xに欠けるもの、それがひと味の違いである。
ひところ、このひと味の正体を知りたくて、あちこちの鮨屋を訪ねた。神田の某、九段の某、銀座の某。それぞれに旨い鮨を食べさせる名店だが、疑問は深まるばかり。それなら、「数寄屋橋次郎」に行ってみようと覚悟を決めた。
日本一、と呼ぶ人もいる名高い店である。昼から商売をはじめるが、いわゆるランチメニューはない。鮨だけで二万五千円はする。当主と息子と若い職人の三人が鮨を握る。店内は清潔で、適度なゆとりがあり、客あしらいも丁寧。
ひと通り握ってもらう。
やや小振りの鮨で、飯は理想的な小判形。特筆すべきは、飯の炊き加減と味加減である。でしゃばらず、さりとて沈黙して引き立て役に徹するだけでもない。まぐろは赤身から、ほどよく脂が乗ったトロまで楽しめる。白身の潤い、貝類の香りは満点。ただし、コハダのしめ加減が私には強すぎた。これは、あとで知ったことだが、数寄屋橋次郎の味なのだそうだ。意図したことなら、あとは客の好みの問題だろう。コハダにしろ、サバにしろ酢でしめる加減は、職人にとっては腕の見せ所だが、何をもって正解とするか難しい。
では、鮨屋のひと味は、「好み」なのだろうか。
それは違う。私は大和にあって、Xや他店に欠けるものを、数寄屋橋次郎で楽しむことができた。
全十三品。お茶で口を濯いで、余韻を味わう。
地下の店を出ると、歩道に鳩がさあっと舞い降りてきて、それを男の子が追いかけた。鳩は美しい弧を描いて、銀座の小さな空に向かって飛び立った。このとき、
鮨の不思議がわかった
ような気がした。
鮨職人は、鳥追いなのだ。
自由に飛び交う鳥の美しさ、楽しさを手に入れようと、捕まえて標本箱にピンで留めたら、鳥は死んでしまう。新鮮な魚、上手く加減した飯。これらを、鮨という形に押し込めるだけではだめなのだ。ネタや飯から得たインスピレーションを、そっと生け捕りにして、お客の前でもう一度羽ばたかせる。これが、鮨の醍醐味なんだ。
大和には、屋台店からはじまったと言われる鮨の威勢と軽やかさがある。数寄屋橋次郎には、端正に整えられた店の中で、生き生きとインスピレーションを再現する技術がある。だが、これらは教則本に書いたり、説明できることではない。
さて、体調がもどったらXに行ってみようか。
数寄屋橋次郎の当主は七十を過ぎても鮨を握っている。大和の親父も、もういい歳だ。Xの職人はまだまだ若い。客が無言のうちに彼を育てるのだ。もし彼が客からインスピレーションを得られないような職人なら、そのときは通うのをやめればいいだけの話なんだから。
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