新人作家の新・食エッセイ
6月
5日月曜日
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 #58 匿名希望

 

 わたしが深夜放送のラジオを聴きはじめた頃だから、いまから三十年ちかく前になるけれど、リスナーから放送局に届く葉書は必ずといっていいほど、「匿名希望の○○さん」といった具合に紹介されていた。○○のところは、葉書を送って来たひとが自ら名乗るニックネームだった。匿名という言葉を聞いたのは、この時がはじめてだった。いまは匿名希望と言わず、「ラジオネーム○○さん」と紹介している。
 ニックネームを名乗るのは、本名を紹介されるのが恥ずかしいという理由なのだろうけれど、いろいろ凝った名前を付けてくるひとがいるところをみると、自分で自分にニックネームをつけることが、ラジオに葉書を投稿する流儀の第一歩になっているみたいである。
 インターネットのハンドルネームも、自分で名乗るニックネームだ。
 こちらはラジオより事情が複雑になり、プライバシーがあるから本名を明かさないと理屈を言うひとがいる。姓名を明かしては、自由な発言ができないという。
 インターネットでなにか発言する。この発言が波紋を呼ぶ。場合によっては過去に書いたことから、どの辺りに住んでいるとか、どんな仕事をしているかまで割り出す輩が出てくる。実名を明らかにしていては、どこの何をしている誰なのか丸わかり。まあ、ここまで深刻なことにならないまでも、ニックネームを名乗っておけば、何かあったとき実名の自分が矢面に立たされるより、気が楽な面もあるだろう。
 でも、どうなんだろう。そんなに皆が皆、身元を秘密にしなくてはならないようなことを、ブログとか掲示板に書いているのだろうか。
 プライバシーといえば、知り合いからこんな話を聞いた。
 知り合いの友人Aさんが車を運転していたところ、脇道から出てきた別の車に衝突された。
 Aさんから見て完全な側面衝突で、脇道から飛び出してきた車のほうに非があるのは明らかだった。
 Aさんは、警察と保険屋に事故の解決を任せるつもりでいた。しかし、念のために互いに名乗りあいましょう、と相手に提案した。すると、

「個人情報だから、名前は言えません」

 Aさんはむっとなったが冷静に、
「わたしから名乗ります。だから、あなたのお名前も教えてください」
 と頼んだ。
「あなたが名乗るのは勝手だけど、わたしは個人情報を漏らしませんよ」
 まるで埒があかない。
 警察官が現場に到着した。
 警察官は免許証の確認をする。事故を起こした相手は、この期に及んでも警察官に言ったそうである。
「わたしの名前をあの人に知らせたら、個人情報保護法違反ですよ」
 この話を聞いて思い出したのが、紙ゴミ収集の日にゴミ捨て場にあった段ボールの束である。
 それは宅配便で使われた箱らしく、荷札を破り取った跡があった。荷札には送り主と受取人の名前、住所、電話番号が書いてあるから、破り取って当然だろう。でも、さらに黒マジックで段ボールがまだらに塗りつぶされていたのである。
 送り主が箱に書いた荷物の内容を消そうとしたのだとしたら執拗な感じだった。〈みかん〉とか〈りんご〉などのように元々印刷されていた文字まで消したかったようだ。
 ゴミにもプライバシーがある。
 たしかにそうなのだが、箱に印刷されていた文字までプライバシーなのだろうか。
 Aさんの交通事故の相手と、段ボールを黒く塗りつぶしたひとほどではないけれど、わたしも素性を隠すことがある。
 電話が掛かってきたとき、わたしは声音を低くし、「はい」とだけ答える。
 以前は、
「もしもし、加藤です」
 と名乗ったものだ。
「はい」とだけ答えるようになったのは、たぶん十数年くらい前だったと思う。やたらめったら電話を掛けてくるセールスが増えたのだった。
 こちらが何者か関係なく、0から9までの数字の組み合わせで電話を掛けてくる相手に付き合っていられない。それに、うっかり名前を名乗ると「加藤さん、かくかくしかじかという商品があるのですが」と相手のセールスに弾みを付けてしまう。またなにより、こういった電話を掛けてくる手合いが不気味だった。
 受話器を上げ、「はい」と答えた後、聞き覚えのない声がしたら疑いの気持ちがむくむく湧き上がる。
「○○さんのお宅ですか」
 と明らかに間違い電話だった場合も、
「違います」
 とつっけんどんになる。
 その後、
「確かめさせていただきたいのですが、そちら様は×××の××××番ではありませんか」
 こんなふうに電話番号を相手に聞かれる場合もある。
 わたしの番号と違っていたら、また「違います」と一言。だが、番号通りだったときは考える。
 なぜ、この番号を間違い電話の相手は知っているのか。わたしに割り振られる前に、別人が同じ電話番号を使っていて、このひとに電話を掛けようとしていたのか。しかし、電話局は解約された番号をかなり長い間あらたな相手に割り当てないと聞いたことがある。なにか企みがあって、間違い電話を装っているかもしれないぞ。
 わたしは、
「まあとにかく、こちらは○○さんではありません」
 などと言って受話器を置く。
 電話を切ったあと、ぼんやり嫌な気持ちになる。
 こんな些細なことでも、相手が信じられないとは。
 わたしはまだら模様に塗りつぶされた段ボールに驚いたけれど、段ボールをマジックで塗りつぶすことと、電話で匿名を貫くのは、疑心暗鬼という点では大差ないかもしれない。
 社員名簿をつくるのをやめた会社がある。この会社は受付に内線電話が置いてあり、訪問相手を呼び出す方式なのだが、電話の脇にある表からも人名が消えて部署名だけになった。通信販売でものを買うとき、姓名を全部ひらがなで書くひとをしっている。そういえば、最近の小学生は名札をぶら下げていない。
 こんな風潮のなか、新鮮に目に映ったものがある。
 喫茶店の入り口の傘入れに、柄が木製のかわいい女物の傘があった。若いひとが差して来たもののようだ。この傘の柄に

名前がフルネームで

彫ってあった。
 誰もが見られる場所に実名を彫り込んでしまって大丈夫かな。と思いつつも、そこに持ち主の名前があることに、わたしは何ともいえずほっとさせられたのだった。

 
 
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