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#70 贅沢は素敵か
枯葉の季節になって、庭に鳥が訪れるようになった。
つい数週間前までは、近所の柿がたわわに実っている家に居着いていたのだが、柿を食べ尽くしたいまは浪々の身なのだ。
我が家には、鳥のために植えた金柑や赤い小さな実のなる木がある。だから、これらを食べればよいものを、ちょっと近づいて縄張りの主張をひと鳴きして、すぐに立ち去ってしまう。
彼らが待っているのは、ミカンでありリンゴなのだ。
もちろんミカンやリンゴが手品のように無から現れるわけがない。
せっかくの金柑や赤い実をいっこうに食べないのを見て、腹が減ってかわいそうにと、わたしが自分のために買ったミカンやリンゴを差し出すのだ。
しかし、なぜ家の木になっている実を食べようとしないのか。去年などは金柑が大豊作で、鳥が食べないものだから、人間が食べた。生で食べても、ジャムにしてもとても旨かった。
金柑とミカンとの違いは、実の大小だ。
小さいから気に入らない、などと浪々の身の立場で言えたものだろうか。
人間だったら、血がしたたる分厚いステーキが食べられなければ牛丼を食べる。牛丼も食べられなければコンビニの牛肉のしぐれ煮入りおにぎり一個でがまんする。そうして、腹の都合と財布の都合の帳尻を合わせるではないか。
なのに、
鳥はステーキ級を
待ち続ける。
わたしがミカンやリンゴを差し出すまで鳥たちが何を食べているのか、それはわからない。でも、我が家の赤い木の実を食べないのだから、公園やよその家の庭の木の実は食べていないに違いない。
それとも、ここ何年かの間に、この家の人間はいずれごちそうをくれるから、チマチマしたつまらないものは食べないでおこうなどと知恵を働かしているのだろうか。
だとしたら、なんとも感じが悪い。
しかし、いかにも餌を待っているみたいだから、皮が乾燥してしまったり傷んだミカンをやる。
このとき、丸のままやるとほとんどといってよいほど口を付けない。ただし、そこにあるものがミカンであると認識はできているらしく、近づいて来てぼんやりしている。
ミカンの皮を剥くと、やっと食べはじめる。だが、数日経っても全部食べきらない。
そこで、半割りにしたミカンを与える。
すると、わずか半日ですべて食べ尽くしてしまう。
これはリンゴも同じで、丸々一個のままでは何日経ってもなくならない。見向きもしない場合もある。ところが、ミカンのように半割りにすると、瞬く間に食べてしまうのだ。
だが、いつもいつもミカンやリンゴの余分があるとは限らない。あくまでも人間が食べるために買ったものを、お裾分けしているに過ぎないのだから、そうそう鳥にやってばかりはいられない。
こうなってはじめて、やっと赤い実をついばむのだった。だが、その食べかたは文字通り「ついばむ」程度なのだ。ひとつぶ、ふたつぶ飲み込んで、どこかに飛んで行ってしまう。
これまでにいろいろな果物を与えてみた結果、鳥の好物の第一位はバナナだった。バナナも皮付きより、食べやすく中身だけにしたもののほうが圧倒的に好まれた。中身だけのバナナ、皮付きのバナナに次いで好きなものは、半割りのミカンとリンゴ。以下、丸のままのミカンとリンゴ、それからだいぶ地位が下がったところに赤い木の実。金柑は最下位だ。
パンを餌台に置いたことがあるのだが、全粒粉で天然酵母の重たい黒っぽいパンより、ふわふわの白いパンのほうが圧倒的に人気があった。もっとも好んだのはバターたっぷりのデニッシュパンだった。全粒粉のパンはついには干からびて、小石のようになってしまった。
これらは、気まぐれやあいまいな好みではなく、断固とした序列だ。
金柑に人気がない理由はわからないが、彼らの嗜好は贅沢なのだ。
でも、本能で生きている鳥たちのことだから、これが生きるために有効な食物の順位なのだろう。それでなかったら、いまごろ絶滅してしまっている。
人間は贅沢をすると、どうしても罪悪感を覚える。こんなことを続けていては、いつか身を滅ぼすかもしれないなどと考える。でもそれは、
ケチくさい感覚
なのかもしれない。
贅沢な食物を選り好みして食べている鳥を見ていると、本能のままに求めるのが一番なのではないかという気がしないでもない。
わたしはいま、あるカメラが欲しくてたまらない。それは高性能で、高価である。このカメラを買っても、性能を使い切れないことはわかっている。贅沢だ。しかし、物欲が疼く。
鳥たちに半割りにしたミカンを与えながら、本能に従うべきか、それとも理性に従うべきか、悩みは尽きない。
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