新人作家の新・食エッセイ
1月
7日日曜日
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 #72 夜更けの小さな客人

 

 年末のある日の夜更け、玄関のドアノブを激しく動かす音が家中に響いた。
 我が家は二階に玄関がある。一階の自室にいたわたしは何事かと耳を澄ました。
 二階にいる妻が、「どなたですか」と声を掛けている。
 返事がない。
 わたしは、ただごとではないと階段を駆け登った。
 気ぜわしくドアノブが動いていた。
「どなたですか」
 妻の声が震えた。
 やはり返事がない。そして、表にいる何者かがドアノブを動かすだけでなく、鍵がかかった戸を

力ずくで開けようと

しはじめた。
 妻はわたしを怯えた目で見た。
 妻を一歩下がらせ、神経をドアの外へ集中させた。
 ドアに磨りガラスが嵌まっているのだが、そこにちらりと人影が映った。しかし、動きが速く相手の正体がわからない。
 ドアはさらに激しく揺さぶられた。
 磨りガラスに掌が押し当てられ、指のかたちがはっきりわかった。大人の指にしては小さい。
 目を凝らした。
 小さな顔がこちらを覗いた。背も低い。相手が子供とわかっても緊張は解けなかった。恐る恐るへっぴり腰で鍵を開けた。
 ドアの隙間から、三歳くらいの坊やがするりと玄関に入って来た。
「あら、まあ」
 妻が素っ頓狂な声を上げた。
 親はいるかと外を見回したが誰もいない。
「僕、どうしたの」
「あのね……」
「何か用事?」
「お父さんの家(うち)」
「はあ?」
「お父さんの家」
 とまた言った。あまりに懐っこい表情だったので、わたしが「お父さん」と呼ばれているみたいで奇妙な気持ちになった。
 坊やは玄関から廊下に上がろうとした。
「ちょっと待って」
 わたしは坊やを止めた。
「お家を間違えちゃったのかな。ここは坊やの家じゃないよ」
 と妻が言った。
 坊やは納得がいかないみたいだった。
「僕はどこの子かな」
 わたしは坊やの背丈までしゃがんで目線の高さを合わせた。
「どこから来たの」
 妻も腰をかがめた。
 わたしと妻は同じ質問を繰り返したが、坊やは答えない。
「お父さん……」
 坊やにじっと見つめられた。
 わたしはどぎまぎして、坊やから目をそらした。
 そうこうしているうち、坊やは表に出て行った。
 幼い子供が夜道をひとりで歩くのは危険だ。サンダルを履いて外に出ようとすると、坊やは我が家の前の坂道を駆け足で下って行った。そして、数軒先の暗がりで姿が見えなくなった。その辺りの家に入ったみたいだった。
「いったい何だったのだろう」
「さて」
 と妻は首をひねった。
「現代版の座敷童だったりして」
「まさか」
「いたずらかな」
「いたずらなら、ドアが開いたらすぐ逃げ出すでしょう」
「そうだよね。自然な感じで廊下に上がろうとしていたし」
「やっぱり家を間違えたのよ」
「でも、自分の家と間違えたのなら、『お父さんの家』なんて言いかたはしないと思うよ」
「坂の下のお宅が父親の実家で、そこに遊びに来た子供だったのではないかしら。大人が目を離した隙に表に出て、戻る家を間違えてしまったとは考えられない?」
「たしかに、この辺りはそっくりな家が多い。小さな子供の目には、違いがよくわからないのかもしれないね。だけど、僕らを見て驚かなかったのは妙だ」
 坂の下の家も坊やの勘違いではないのか、と気になった。わたしは心配になって、町内をくまなく駆け足で巡った。だが、坊やの姿はなかった。
 家に戻ったわたしは、食卓で妻と向き合い茶を啜った。
 唐突なできごとだったせいか、坊やの残像が瞼の裏から消えない。「お父さん」と声までよみがえり、まだ家の中に坊やがいるような気がした。
 坊やの気配と、夫婦ふたりきりでいることが、強い対比となって、やけに家の中が静かに感じられる。
 ふと思った。わたしも妻も二度目の結婚だ。それぞれに子供がいても不思議ではない。もしわたしたちに子供がいたら、夫婦の暮らしはまったく別のものになっていたに違いないと想像することがある。あの坊やは、想像を具現化させるために

天が遣わした子供

だったのではないか。天は子供を目の前から瞬時に立ち去らせ、来年も、そしてずっと先も夫婦ふたりだけの生活が続くことの意味を噛みしめろと言いたかったのではないか。
「かわいい子だったな」
「すぐ大きくなって生意気になるわ。子供がいたら、お父さんは大変よ」
 妻は笑った。
 二杯目の茶を飲んだ。
 湯飲みをテーブルに置く音が、やけに大きく聞こえた。

 
 
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