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#74 父という生きかた
山田太一さんと話をする機会があった。
その中で印象的だったのは、お父さんの思い出話だった。
山田さんは大学に入学して東京の恵比寿で間借り暮らしを始めた。すると、お父さんが上京してくるようになった。これといって事前に連絡はなく、しかも日中にやって来るから山田さんはいつも出掛けていていない。すると、あるとき
大きなスイカを一個ぽつんと
部屋に置いて帰って行ったというのだ。
「明治生まれの男の、不器用な愛かな」
と山田さんは言う。
山田さんのお父さんは苦労人だ。
自宅を兼ねていた食堂が強制疎開で取り壊しとなって、家族を引き連れて湯河原に移り住んだ。お母さんは引っ越しの苦労でほどなくして亡くなり、お父さんは孤立無援の状態になった。湯河原で幾つもの仕事をしたが、食べていかれず指圧師になった。湯河原は羽振りのよかった時代に骨休めにしばしば訪れていた地だったが、指圧師になってからはかつて客だった旅館に「仕事をください」と頭を下げて回るようになった。
「屈辱だったと思います」
小学生だった山田さんにも、お父さんの気持ちがひしひしと伝わった。
「自分には父のような生きかたは到底できないと今でも思っています。圧倒されています」
その後、山田さんのお父さんは湯河原で初めてのパチンコ屋を開業し、すこしずつ豊かになっていった。そのおかげで、山田さんは大学に進学できたのだという。
「今から思えば、余裕ができて上京するようになった頃、父に女性がいたらよかったなと思うんですよ。たぶん、そんな女性は一生いなかったでしょう」
遠くを見るような目で、山田さんは言った。
山田さんのお父さんの話を聞いて、わたしは自分の父のことを思わずにはいられなかった。
父と山田さんはほぼ同世代だ。
父は戦争が始まった頃、肋膜炎を患い学校を一年休学した。そして、終戦直後は六人家族の食料を手に入れるため、静岡の市街地から山奥まで自転車を走らせた。急な山坂道である。登るのは大変。下るのは危険。ブレーキが効かず、何度も命を落としかけたという話を、わたしは母から聞いた。本人は過去のできごとを何も語らないのだ。
家にいる父は、書類を拡げて仕事をしているか、黙々と掃除をしているかのどちらかであった。わたしは父と遊んだ記憶がない。アルバムの写真を見ると、兄を抱いたり、いっしょに遊んだりしているものはあるのだが、わたしと写っているものは皆無だった。反抗期に入ったわたしが、このことで臍を曲げたら、とても仕事が忙しい時期だったのだと母が教えてくれた。だが、父はどうしてわたしと遊べなかったのか言い訳をしなかった。
そんな父が、家からいなくなった時期がある。
わたしが高校生になるかならないかというとき、父は経営していた会社を騙し取られ全財産を失った。しばらくして父は東京に働きに出た。
父が家を出た日のことを、わたしは憶えていない。いつも通り朝になり、わたしが学校へ出掛けた後、父は家を出て行ったのだ。場末にある消費者金融で働き、共同トイレの木造アパートで暮らして、
食事は雑炊ばかり
啜っていたと教えてくれたのは母である。教えてもらわなければ、いまも父がこの数年間何をしていたのかわからないままだっただろう。
東京で働いていた父のもとに、ひと月にいっぺんくらい母が訪ねて行った。新幹線は使わず、時間は掛かるが運賃が安い高速バスに乗っていた。このときは母が父の身の回りの世話をしているのだと思っていたが、考えてみると父は几帳面な質だから洗濯などは自分でしていただろうし、仮に母が掃除をしたとしても狭い部屋だからあっという間に終わっただろう。
父と母は共にべたべたしたところがなかった。会話もすくない。「お茶を淹れましたよ」と母が言っても、父は返事をしないくらいだった。そんなふたりが、狭いアパートの部屋で何をしていたのだろう。
まったくきめ細かなところがなさそうに見えて、父は夫婦の愛情を大切に思い、母との時間を過ごしていたのではないか。
当時、家が緊急事態にあることで、わたしは漠然とした不安を常に感じていた。しかし、もう駄目だとは思ったことはなかった。倹約しながらも、父と母の努力で衣食が足りていたからだ。そして、父とは離れて暮らしていたが、家族が身を寄せ合って生きている実感があったからだと思う。
父は東京に行った日のように、ふらりと帰って来た。失ったお金を、稼ぎでほとんど取り戻したのだ。
山田さんが言うように、わたしも父のような生きかたは到底できないと思う。
山田さんと会った数日後、実家から段ボール箱でミカンが届いた。母は携帯電話のメールを使いこなすようになっていて、わたしに荷物について書き送って来ていた。わたしはお礼を返信した。
電波が空を飛んで行くのを想像しながら、父にありがとうとつぶやいた。
宅配便の送り状の文字は母のものだったが、段ボール箱の頑丈すぎるくらいの梱包は、どう見ても父の手によるものだった。
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