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#77 わたしの中の獣
二月の末のことだが、所用があって外出をしたら、鼻水が止まらなくてたいへんなことになった。数年来ほとんど症状が出ないので治ったつもりでいたが、どうみても花粉症だ。
このときはコンビニに駆け込んで小さなティッシュペーパーを手に入れ急場をしのぎ、家に帰ってからだいぶ前に買って仕舞い込んでいた花粉専用のマスクを棚の奥から取り出した。徳用箱だったのでかなりの枚数が残っている。
鼻水が止まらなくなった日から、遠出をするときはマスクをすることにした。どうもわたしの花粉症は急性で、しかも重症ではなかったらしく、外出中にマスクを外しても毎回鼻水が出るわけではなかった。それでも、いつひどくなるかわからないので用心をした。
ことある度にマスクを使うようになって、忘れていたことを思い出した。マスクはかけてしばらく経つと中が蒸れて臭う。花粉専用マスクはかたちといい素材といい工夫が凝らされているのだが、特有の不快な臭いだけは無くせないようだ。
この蒸れた臭いを、マスクとは関係ないところで嗅いだことがあるような気がした。それはいったいどこで、どんなときだったのか考えているうちに三月になった。
そしてふと気が付いた。蒸れたマスクは、以前飼っていた
犬の息の臭い
に似ている。動物特有の獣臭さだ。息がマスクで遮られ臭いが増幅されているのだとしても、犬の臭いだったことに戸惑いを覚えた。
わたしの息だけが獣臭いのか心配になって、花粉症でマスクをしている人たちに話を聞いた。犬の臭いという意見はなかったが、そのうちの一人は「たしかに、生々しい生き物の臭いがして嫌だね」と答えた。
「どんな生き物だい?」
「哺乳類全般の体臭といったところかな」
やはり、人間が吐く息は獣の臭いがするのだ。
それからというもの、マスク以外の臭いも気になりだした。トイレに入れば、小便も大便も臭う。臭いが嫌だから、小窓を開けて空気を入れ換えたり消臭剤を使う。一日着た服や下着には、おろしたてのときにはなかった体臭がする。これを香りの付いた洗剤で洗濯する。風呂で使う石鹸にも香料が入っている。わたしは自分が無臭か、臭いがあっても微かなものだとばかり思っていたが、自らが発する臭いを消したり香りをまとって誤魔化していただけなのだ。
それにしても、どうして人は体臭を嫌うのだろう。動物は人間よりはるかに鼻が効くけれど、自らや同類の臭いを嫌ったりしない。むしろ、マーキングに使ったり、アイデンティティの拠り所にしたり、誇らしげにしているように思える。
人が体臭を嫌うのは、わたしがマスクに籠もる獣の臭いに気付いて戸惑ったように、自分が動物であることを意識させられるからではないだろうか。下等な動物ではなく、高尚な人間でいたいのだ。
その代わり、植物の匂いは大歓迎されている。ドラッグストアには花、果物、ハーブの香りを強調した石鹸、シャンプー、洗剤、香水が所狭しと並んでいる。
植物に化けるために
用意されているみたいだ。
植物は小便も大便もしない。動物のように無闇に鳴いたりしないし、動き回らないから楚々としてみえる。生物として受粉の営みをしているけれど、セックスのような生々しさがない。進化の頂点に立つ人類は、このような存在に近づきたいのではないか。
人間社会の秩序は、肉体の欲求や本能を押し殺した上で成り立っている。体臭をぷんぷん漂わせたら、動物であることを忘れようとして無言のうちに協調している雰囲気をぶちこわしてしまう。
マスクの臭いのせめても救いは、自分だけが我慢すればいいところだ。そして花粉症の季節が終われば、翌年までは獣臭さに顔をしかめることもない。
マスクをして外出するたび、こんなことを思いながら歩いた。
渋谷に出掛けたときだった。雑踏から突然大声が轟いた。スーツ姿の若い男が携帯電話で相手を罵倒している。敵意を剥き出しにして狂犬のように威嚇する様子に、周囲の人々は凍り付いた。
若い男は電話を掛けながら人込みの中に消え、街はさっきまでの雰囲気に戻った。だが、わたしはしばらく平常心に戻れなかった。
体の中に獣が潜んでいるのは、携帯電話の若者だけではない。おとなしい存在に見える群衆の、一人ひとりの中にも獣がいる。いま獣は眠っているかもしれないが、何かの折に目覚めても不思議ではない。街は危険な動物で溢れかえっている。わたしも、そのうちの一人だ。
相変わらず、マスクが臭う。マスクを外して、深呼吸せずにはいられなかった。
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