新人作家の新・食エッセイ
4月
19日月曜日

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 #8 神様だらけのこの世の中

 

 Aさんは植込み式心臓ペースメーカーを装着している。
 電車で隣り合わせに座った女が携帯電話をハンドバッグから取り出したので、「すみませんが、電源を切ってもらえませんか」と言ったところ、ものすごい顔で舌打ちされた。それからというものAさんは、命の不安を覚えても携帯電話を使う人に「電源を切って」とお願いをできずにいる。
 首都圏の私鉄と地下鉄が携帯電話使用の統一マナーをつくって久しい。
 統一マナーとは、
「お客様にお願い致します。優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい。それ以外の場所では、マナーモードに設定の上、通話はお控えください。ご協力をお願い致します」
 と案内が流れたり、ステッカーが貼られているアレだ。
 あんな内容ではだめだ、と揶揄する一文を「きょうのお料理」に書いたことがあるが、いまも考えは変わっていない。鉄道各社が足並みを揃えた点は評価しよう。だが、優先席「付近」などと対象範囲が曖昧だし、各自のマナーに訴えるあたりに施行側の腰の退けた姿勢が垣間見られ、その辺の事情を乗客にまんまと見透かされ、まったくと言っていいほど徹底されていない。
 だから、Aさんは不安を抱えたまま電車に乗っている。
 世間には、携帯電話の電波でほんとうに心臓ペースメーカーが誤作動するのだろうか、という疑問の声がある。現代の暮らしに欠かせないテレビや電子レンジなどの電化製品からも電磁波(電波)は漏れている。コンピュータに至っては、十数センチの至近距離から電磁波を浴びるではないかと。しかし、Aさんが不安を訴えるのには、それなりの根拠がある。
 2002年、『電波の医用機器等への影響に関する調査研究報告書』を総務省が発表した。この報告書は携帯電話が心臓ペースメーカーにどの程度影響するか実験したもので、日本で用いられている通信方式をすべて検証したものだ。携帯電話には800MHzまたは1.5GHzの電波を発信するPDC方式と、2GHzのW−CDMA方式がある。W−CDMA方式は1センチの距離でペースメーカーに干渉しなくなり、人体の皮膚や筋肉の厚さを考慮するとまず危険はないとわかった。が、他の方式は

11.5センチ離れても誤作動を誘発

するものがあり、安全マージンを考慮すると総務省が従来から通告していた「携帯電話は植込み型心臓ペースメーカーから22センチ以上離すべし」という指針が適切であると確認されたのだった。
 携帯電話は通話していないときも、電波で忙しく基地局を探しまわっている。電源を切らない限り、電波は止まない。その電波を受けてペースメーカーが誤作動すると、心臓が停止することもあり得るのだ。これだけ深刻な問題なのにルールで規制しないでマナーにお願いするなんて、お客様大事を履き違えてはいないか。
 お客様は神様です、と言ったのは三波春夫だ。
 はじめは公演で言っていたのが、あっという間に評判になって、テレビの公開番組でも必ず言うようになった。そしていつの間にか三波春夫の専売特許が外れ、誰もが辞書に載っている慣用句みたいに使い始めた。
 たしかに便利な言葉に違いない。「いらっしゃいませ。お安くしとくよ」と言った後につけると、ほどほどのサービスが三波春夫のきんきらの着物みたいに光輝いてくる。お客もふかふかの座布団と玉露でもてなされたような気がする。だから流行ったのだろう。いつの頃からか、みんながみんな腹の中でお客様は神様と本気で信じるようになり、神様扱いされないと腹の虫が収まらなくなった。
 それは鉄道の乗客もいっしょ。近頃の駅員は、電車が遅れたら殺気立った客に吊るし上げられ、キップを拝見と声をかけただけで態度が気にいらないと殴られる。反論しようものなら「客を客と思っていない」と責められるのがオチ。だから、ルールとか規則とか言いたくなるのをグッとこらえて「マナー」と言い換え、「禁じます」と言えばすむところを「お願いします」と頭を下げる。障らぬ神に祟りなし。でも問題の核心はぼけ、いったい

誰のための「マナー」か

わからなくなっている。
「神様にも、困ったもんですね」
 と私。
「しかし、まいりました」
 とA氏。
「電磁波がいけない理由を啓蒙したほうがいいですね」
「無駄ではないでしょうか。結局は、協力をお願いするわけですから」
「では、やっぱりアナウンスの仕方を変えるべきでは」
「禁止、とか言うんですか。それで取り締まりでもしますか。蜂の巣をつついたような騒ぎになるでしょうね。憶えてますか、千代田区の路上禁煙条例を――」
「もちろん。たしかに、反発の声が上がりましたね」
「声があがるなんてもんじゃなかった。自由を奪うなんていうのは序の口で、ファッショ条例なんて言い出す文化人さえいました」
「神様なら、文句ばっかり言ってないで、なんかいいことしてくれればいいのに」
 私のヘタな冗談に、A氏はにこりともせず首を横に振った。
 A氏と別れて、Pホテルのバーへ。
 バーテンダーは物腰柔らかく、さりとてへりくだることなく、
「いかがしますか」
 と言った。
 酒の銘柄を言って注文すると、グラスが風かなにかの作用のように静かにコースターに置かれた。三つ四つ離れたところで、酔客が舟を漕ぎ始めた。バーテンはなにごとか諭すように囁き、客を帰らせた。
 私が神様でも、バーテンダーが神様でもない。だけど、何の不都合もなく時は流れる。
 これで十分だろうに。

 
 
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