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#84 怖いもの
車の免許を取って二十年は経つ。自慢するほどのことではないが、無事故無違反のゴールド免許だ。
しかし、いまだに車の運転が怖い。
心から楽しくというか、気楽に運転することができない。人並みにアクセルを踏み込み交通の流れに乗って車を走らせているけれど、運転にまつわるあらゆる不測の事態が常に頭にちらつくのだ。
あらゆる不測の事態と書いたけれど、それは不安の集合体で、個々別々の具体的な事態を思い浮かべているのではない。車は怖いというひとかたまりの不安なのだ。
私は自分でもうんざりするくらいの心配性で、外出するときドアに鍵を掛けたか、忘れ物はないかなど、一度家に戻ったり鞄を開けて何度も確かめないと表通りに出られない。車への不安も、この心配性のせいかもしれない。
それくらいのほうが事故を起こさなくてよいと言ってくれる人もいるが、本人としてはなんとか克服したい。まるで自転車のように軽自動車を乗り回しているお嬢さんを見ると特にそう思う。だが不安の根本的な原因がよくわからないから、どうやって克服したらよいのかわからないのだ。
こんな話をしたら、落語の「饅頭こわい」のような会話になったことがある。
まず私が運転以外の怖いものを挙げた。
幼いとき実家にあった
飾り物のマリア像が怖くて
たまらなかった。マリア像は純白で高さ三十センチほどだった。夜になるとマリア像の周囲だけ灯りが届かず、それなのに像自身がぼんやりと光を放っているように見え異様だった。もちろんマリア像の周りだけ暗かったり、光を放ったりしているはずはなく、恐怖でそう見えたのだろう。
私があまりにも怖がって泣くものだから、母はマリア像を目の届かない箪笥の上に載せた。でも、それでは何の解決にもならなかった。箪笥の上にマリア像が身を潜めているみたいで、ますます怖かった。今でも縫いぐるみは別にして洋風の人形が嫌いだ。
すると、蝶が怖いと言い出す男がいた。虫が怖いという話はしばしば聞くけれど、蝶だけが怖いというのだ。蝶はきれいではないか、とその場にいたみんなが言った。いや違う、と彼はきっぱりと否定した。
大きな羽をひらひらさせているさまが耐えられないらしい。しかも、その羽に様々な模様がある。
「あんな気味の悪い生き物はないじゃないか」
ほんものの蝶だけでなく、擬人化されて妖精かなにかの体に蝶の羽が着いている絵を見ると全身に鳥肌が立つ。蝶の不気味さが倍増されるのだそうだ。
別の男は、マス目が怖いと言った。
よくよく話を聞くと、マス目ばかりでなく規則正しく整列しているものにぞっとなるらしい。たとえば、タイルだ。大きなタイルはまだよいのだが、小さなタイルが壁を埋め尽くしているさまは正視できないそうだ。梱包に使うエアパッキングの空気の粒も駄目で、これが使われていた場合はなるべく手元を見ないようにして荷物から剥がす。パッキングの空気の粒を押しつぶすのを楽しむ人がいるが信じられないと言った。
「携帯電話のボタンもマス目だよ」
「知ってるよ。気付かないふりをして使っているんだ」
泳げないから海が怖いなどわかりやすいものもあったが、大人の男がおかしなものを怖がりひそかに怯えているのだった。
過日、私はジャズを扱ったテレビ番組を観ていた。夜も更けていたので音量は低くくしていたのだが、妻がキッチンで水仕事を始めたのですこしばかりボリュームを上げた。
キッチンから妻が駆けてきて、いきなりテレビの音量を絞った。何ごとかと思って聞くと、外で犬が騒いでいるという。
「音楽に反応しているみたいよ」
そのときまで水音とテレビの音で気付かなかったが、たしかに何匹もの犬が遠吠えをしたり威嚇の声をあげていた。ただごとではない。でも、外に漏れるほどの大音量でテレビを観ていたわけではないから、音楽に反応して犬が騒ぎ出したとは思えなかった。
妻とともに耳を澄ました。
するとどこかの家で女が泣き叫んでいた。その声は急激に高くなり、夜の静かな住宅街に響き渡った。狂ったようにヒステリックで、誰に対して何を言っているのかわからない。尋常ではない鬼気迫るものがあった。
妻は怯え震えた。私も怖ろしくなり、得も言われぬ不安が込み上げてきた。それは車を運転する怖さの比ではなかった。窓を閉めても耳を覆っても聞こえる女の声に、私たちは身じろぎひとつできぬまま、いつ終わるかと時計を見つめながらひたすら耐えた。時間が凍り付いたみたいだった。一夜明けて朝になっても、我が家には女の叫び声が残していった不気味さが漂っていた。
泣き叫ぶ女に何があったのか知らないが、そのとき彼女の日常が壊れたのは確かだ。町は退屈なくらい平和だと思っていた私たち夫婦の日常も同時に蹴散らされた。
薄氷のような危うさ
の上に毎日があったのだ。
ほんとうに怖いものは、人間そのものだと知った。その怖ろしさに気付かぬふりをして、もっと怖いものがあるかのように毎日を生きていたのだ。
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