新人作家の新・食エッセイ
8月
6日月曜日
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 #86 理想の床屋方式

 

 八月になり、だいぶ暑くなってきた。
 気温もさることながら、髪が伸びて鬱陶しいことこのうえない。妻にまでユナボマーみたいな髪型だと言われた。
 ユナボマーこと爆弾魔セオドア・ジョン・カジンスキーがどんな髪型だったか即座に思い出せないけれど、まともでなかった記憶はある。いや、そんなことはどうでもよい。ユナボマーに似ているというとんでもない喩えにうんざりさせられた。そして、数日来どうにもこうにも文章が書けないことも苛立ちに拍車をかける。
 何か目的があって髪を伸ばしたわけではない。

床屋に行きたくない

ばかりに、このようになってしまったのだ。
 髪を切るという床屋の本質は嫌いではない。むしろ好きだ。ではなぜ床屋に行きたくないのかというと、のべつまくなし話しかけられるからだ。
「いらっしゃい。どんな髪型にしますか」
 と始まる。まあ、これはいい。ここをこうして、あそこをこうしてと指示する。
「今日は、お仕事お休みなんですか」
 そんなに平日の客が珍しいのだろうか。
「いや、そういうわけではないんだけど」
 と適当に答える。
「へえ、そうですか。お客さん、ボーナス出ました? 出たでしょう。いいなあ」
 この季節だとだいたいこんな展開になる。仕事が休みでもないのに住宅街の中の床屋にくる客がボーナスをもらうような職種でないことくらいわかりそうなものだが、誰にでも同じことを訊いている様子だ。
「………」
 いちいち返事をするのも面倒くさい。
「出たんでしょう」
「出ないですよ」
「どうして? やっぱりあれですか、まだ会社の景気がいまいちですか」
「会社員じゃないから」
「あっそうなんだ。とすると、流行りのSOHOってやつですね。あのね、この辺りにはIT系でそういうことやっている人が多いんですよ。お客さんプログラマなんですね」
「いや、違います」
「あっ、違うんだ。だったら当ててみましょうか。そうだなあ、お宅で建築関係の設計をやっているとか」
「いいえ」
「じゃ、何してるんですか」
「自由業」
 こう答えるとさらにあれこれ説明しなくてはならなくなるなと、わずらわしさが増す。すると案の定、
「自由業ですか。具体的に言うと?」
「文章を書く仕事ですよ」
「へえー、すごいなあ。どんなもの書いているんですか」
「なんというかその、いろいろと」
 この段階で、何も話をしたくないんだという雰囲気を強くにじませておかないときりがない。私は床屋では名無しの権兵衛でいたいのだ。
 以上は職業篇でこれがもっとも定番だ。このほかに、季節の行楽篇や世間話篇もある。どっちにしても、どうでもよい話題ばかりだ。親近感を抱かせ、リラックスさせようとしているのかもしれないが逆効果だ。すくなくとも私はそう感じる。
 床屋は客が求める髪型を把握したら、粛々と仕事を進めるのが本業のはずだ。以前、会社勤めをしていたとき勤務先の近くにあった床屋の主人は、無駄話をまったくしなかった。
 コピーライターという仕事は就業時間があってないようなものなので、会社の定時が過ぎ退社時刻になるとその床屋に行き、また仕事場に戻って作業をした。髪を切られている間、仕事のことを考えたり、逆にすべてを忘れてぼんやりできた。
 理想的な床屋だった。
 ぼんやりしていたと書いたが、厳密に言うとせっぱ詰まった問題ではない何かに思いを巡らせていたというのが正しい。
 これは連想ゲームのようなものだった。ふと大学時代の友人を二十年ぶりに思い出し、それっきりなった彼の現在を様々に想像し、そこから中年期の男にとっての家庭の風景へと飛躍するといった具合だ。連想と想像の余韻は、店を出て会社に戻るまで続いた。
 大袈裟かもしれないが、人生は突き詰めれば単純であり、実に不可思議なものなのだという思いでいっぱいになった。これがすぐ何かの役に立つわけではないが、得難い時間だった。
 髪を切られながら、どうして取り留めもないことを考えていたのかわからない。しかし散髪をしなければ、このような精神状態にはなれないのは確かだった。髪を切るために黙って身を任せるという行為に、精神的な作用があるのかもしれない。
 そこで思うのは、無防備なまでに身を任せる状態とは

理想的な文章を読んでいるときの感覚

ではないかということだ。こういう文章を書かなければならない。
 床屋の本業は粛々と仕事を進めることと書いたけれど、作家も同様に粛々と文章を綴ればよい。だけど、それはなかなか難しいことで、知らぬ間にお喋り床屋のように余計なことをしがちだ。
 ますます気温が上がっている。窓を開けても蒸したよどんだ空気しか流れ込んでこない。今日もユナボマーふうの髪を掻きむしり、キーボードの前で苦吟している。パンケーキミックスの溶け残りのダマのような、心に浮かぶ饒舌な言葉をひたすら潰し続けているのだ。そのうちに道筋が見えてきて、何か書けるだろうと信じて。

 
 
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