新人作家の新・食エッセイ
8月
6日月曜日
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 #87 あの日の自転車

 

 補助輪なしの自転車に乗り始めたのは、幼稚園の最後の年ではなかったか。父の仕事の関係で幼稚園を終えて東京から新潟に引っ越したのだが、このときはもう自転車を毎日のように乗り回していたから、たぶん間違いない。
 私の自転車は兄のおさがりだった。六歳離れている兄はどうしたわけか自転車が好きではなく、仕舞い込まれていたものを譲られたのだ。
 この自転車はフレームが中途半端な小豆色をしていたうえに、当時としても友だちのものと比べると時代遅れの感じがしたが、まったく気にならなかった。そんなことより、自転車で手に入れた自由の楽しさしか記憶にない。
 自転車で得られた第一の自由はスピードだろう。
 スピードがあればこそ、はるか遠くまで出掛けられた。これは子供にとって偉大なことだった。自転車を駆って海まで行ったし、知らない街へも行った。目的地へ向かうという実用性だけでなく、距離を征服することに純粋な喜びがあった。子供にとって大人が考えるよりも距離は遠大で、

未知な世界へ続くもの

だったのだ。
 スピードは距離を克服するためばかりでなく、それそのものが素晴らしくもあった。今から思えばずいぶん無茶をしたものだと思うけれど、崖のような斜面を自転車で下って遊んだ。頂上から走り出すと、風が吹き抜けて行き、あまりの速度でほとんど前が見えなかった。危ない、と思ってもブレーキを掛けるとかえって危険で、体全体でバランスを取った。
 崖を下り終えると、ハンドルとタイヤが明後日の方向を向いていることがあった。これくらい凄まじい衝撃だったのだ。しかし慌てることなく、タイヤを股に挟んでハンドルをくいっと捻り元通りのかたちにすると、また自転車を押して崖を登った。
 小学三年生になって静岡に越してからも、サドルの高さを身長に合わせて同じ自転車を乗り続けた。そして、友だちと連れだってどこまでも出掛けた。バスに乗って遠足で行った河の中州よりもっと上流へ行ってみようと遠出したこともある。このときは厳しい登り一辺倒の山道を歩くような速度で走った。
 自転車で得られる自由はスピードだけでなく、ペダルを漕ぐことで得られる万能感のような感覚にもあった。日頃は端からあきらめ考えもしないことを、自転車とならできるような気がしたのだ。
 ある真夏の日、まだ珍しかった大型のホームセンターができたというチラシが新聞に折り込まれ、見物に行った。チラシには店の所在地が書かれていたが、それは車を運転する人のためのもので目印としてインターチェンジなどしか示されておらず、わかったのは静岡市のはずれの安倍川を越えた辺りだろうということだけだった。自転車に乗って、ただひたすらその方角を目指した。行き当たりばったりだ。しかし、まったく不安を覚えなかった。そして炎天下を迷いながらも、日が暮れる頃なんとか行き着いた。
 中学生になるとさすがにおさがりの自転車には乗れなくなり、また中古だったが変速機付きを買い、高校に入学すると通学に使った。
 太陽が照りつける夏も、木枯らしの冬も、颱風の日さえ自転車で片道四キロを通った。学園祭になりギターやアンプを運ばなければならないときも、バス便があるというのに自転車を使った。荷物をゴムの入ったヒモで荷台に括り付けて運んだのだ。友だちと遊ぶときも自転車で出掛けた。自転車の自由と万能感は、十代の後半まで続いていたのだ。
 そしてその後バイクに凝ったのも、自転車の延長線上としての楽しみだったような気がする。
 今、私の自転車はチェーンが錆びている。
 昔の自由な気分を味わいたいと買ったものだが、自宅がある横浜は坂が多く、しかも車道を走るべきか歩道を走るべきかはっきりしない自転車は使いにくいのだった。仮に交通事情がよかったとしても、炎天下や雨降りの日は自転車に乗る気がしない。
 数週間前から妻が脚を怪我して通院中なのだけれど、こういったときは車があって本当によかったと思う。もし車がなかったら、妻をおぶってバスに乗せなければならなかった。だから車の便利さを否定するつもりはないが、車にはかつて自転車に感じたほどの

自由と万能感を感じない

のだった。
 論理的にいえば、これはおかしい。車のほうが、馬力とその構造から、肉体の働きを何百倍にもしてくれるはずだ。
 私はあるものを失い、そしてまだ何かを忘れられずにいるようだ。失ったものは悪天候や坂道をものともせず自転車に乗る体力であり、この体力を上回っていた無謀なまでの好奇心。忘れられないものは、自転車で得られた自由と万能感の記憶だろう。
 自転車の整備を始めた。油を射したり掃除をしたりしながら、かつて自転車に乗っていた日のことを次々と思い出さずにはいられなかった。
 ここにたぶん私の原点の一つがあるのだろう。体と気持ちがペダルと車輪という単純なかたちで結びつき、前へ前へと進んでいた日々である。
 整備が終わっても、いつ乗り出すのかまだ決めていない。しかし今度ペダルを漕ぐときは、暮らしがすこし変わるときのような気がする。過去には戻れないとしても。

 
 
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