新人作家の新・食エッセイ
10月
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 #90 小判鮫

 

 小判鮫は鮫ではなく別種の魚だそうだ。頭の上の吸盤を使って鮫にくっついて餌のおこぼれにあずかっているように思われているけれど、くっつく相手は鮫でなくてもよいらしい。この習性を利用した小判鮫漁というものがある。これは生きた小判鮫にロープを付けて海に離し、ウミガメの腹にくっついたところで引き寄せるものだという。即座にウミガメを見つける能力があり、吸盤はかなり強力なのだ。
 とにかく変わった魚である。
 高校生のとき、誰が言い始めたのか

小判鮫というあだ名

の女の子がいた。
 この子が一人でいるところを見掛けた記憶がない。いつも誰かといるのである。それも腕をしっかり組んでいる。そんなことから、吸盤でくっつく小判鮫の名で呼ばれるようになったのだろう。
 生徒会長選挙が行われ、新しい会長に今ふうに言うならイケメンの某君が選ばれると、小判鮫さんは彼に接近し、くっつく相手を一人に絞った。そして自分も生徒会の役員になったのである。
 この頃から、彼女の評判はきわめて悪くなった。
 端から見ていて四六時中生徒会長にへばり付いている様子は異様だったけれど、それ以上にイケメンでリーダーである男を即座にパートナーにしたことが女生徒の不信感と反感をかった。それは男どもにも伝染し、あいつは勢力のある者にへばりついて、その威を借り「おこぼれ」をあずかっていると見られるようになった。
 そもそも彼女は生徒会役員になれるような器ではなく、会長が推薦しなければそんな大役には付けなかったと言われていた。また生徒会役員になって、会長を後ろ盾にして権力を振るうようになったとも囁かれた。
 だが実際のところ、生徒会長にくっついて「おこぼれ」と呼べるようなものがあったのか疑問である。役員は忙しい。しかも見返りはない。名誉職なのかもしれないが、高校生は国や地方の名士とは違う。
 だから、彼女の生徒会長への小判鮫的行為は愛情表現だったと考えたほうがよいように思う。ただし恋人を選ぶのに目敏く、行動が素早く、相手を逃がさないことに長けていた。それはやろうと思っても、みなに出来ることではなく、故に彼女は警戒されたのだろう。
 かくのごとく大ブーイングを受けた小判鮫さんだが、彼女なりの葛藤があり、悪評に耐えていたはずだ。彼女の耳に小判鮫というあだ名と芳しくない評判が一対になって入っていなかったはずがないからだ。
 彼女の行動とこの忍耐の方向性が正しく賢明であったかは別の話として、小判鮫になることに彼女なりの重要な価値があったのは事実だろう。まず思いつくのは恋愛感情だが、そこまでしてパートナーにくっついていたのは、たぶん一人でいるときの自らの弱さをよく知っていたからではないかという気がする。そして、弱さを補う手段に忠実だった。
 しかし、こう思うようになったのは随分年月が経ってからだ。
 二十年前、私は大学を卒業してサラリーマンになった。
 なぜサラリーマンになったかといえば、一人で稼ぎ、飯を食うことができなかったからだ。会社に頼ったのである。しかし、この段階で自分の弱さをはっきりと自覚していたわけではない。むしろ自信満々だった。
 会社員として様々な経験をした。
 よい思いは実力で勝ち取ったものだけではなく、会社あってのものもすくなくなかった。一方で、不愉快な思いもたくさんした。会社ならではの理不尽な出来事に、私は悩まされた。
 常に、よい思いと不愉快な思いを天秤に掛け、その結果この会社の社員を続けることを選んだのである。こうなって初めて、自分が

会社に貼り付いて

生きている小判鮫ではないかと思うようになった。そして自らを卑下し、悠々と一匹で海を泳ぐような生きかたに憧れを抱いた。
 一人で生きるのは厳しい。だから、会社に貼り付いた。でも、ここから生じる無理が積もり積もって精神がまいってしまい、会社を辞めることになった。
 過日、電車に乗ったら隣にサラリーマンが座った。若々しく健康的な二人だった。会話の途中からだったが、「人は親や環境を選んで生まれてくることはできない。どうにか選べるのは就職先と配偶者である」という意味のことを真剣に喋っていた。
 前向きな感じというか、さばさばした口ぶりだった。彼らにとって小判鮫であることは義務を伴った権利に過ぎず、もしも会社が気に入らなければ大海に泳ぎだす気概があるみたいだ。自分が世の中の小さな存在に過ぎなければ、それを逆手にとって大きなものと共に生き、よく状況を判断し、場合によっては見切りを付ける。それは汚い生きかたではなく、逞しく生きる方法なのだ。
 この日、図鑑を調べたら、小判鮫が誰かにくっついてばかりでなく、自分で泳いで餌を探すこともある魚だと知った。
 弱さに怯え、うじうじしていた私は意気地なしだっただけみたいだ。

 
 
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