|
#94 幻の煮込み屋
私はモツ煮込みに目がない。
ドロドロ屋としか表現しようのない、みすぼらしく清潔ではない店にも光明を見いだそうと突撃し、喜びを得てきた。
あの日、あのとき旨かった
モツ煮込みは酒の勢いを差し引いても記憶の中でキラキラ輝いている。
外で旨いものを食べると、意地汚いものだから、この味はぜったい真似してみせるぞ、と平常心ではいられなくなる。何をどうしたらよいのか見当がつかなかったが、自分でモツ煮込みをつくることにした。かれこれ十年ほどまえのことだ。
モツはとろっとした中に歯ごたえがあり、味噌はコクがありながらあっさりしているべきだ。理想をこの手で現実のものにしようと試行錯誤が続いた。
初めは牛モツのほうが本格だろうと漠然と思っていたのだが、とろっとした感じがどうしても表現できなかった。そこで豚モツに変えた。こうして理想のイメージに近づけて行ったのだ。
秘密でもなんでもないのでつくりかたを大雑把に紹介する。買ってきた加熱済みの豚の白モツは、ネギの青い葉とショウガの薄切りとともに三十分茹でる。茹で汁とネギの葉とショウガは捨て、モツの鍋に具材を入れる。ダイコンとニンジンの銀杏切り、コンニャク、ゴボウのそぎ切りが具材だ。ニンジンは皮を剥かず、ゴボウは多めにして、これ以上余計なものを使わないことをポイントにしている。ここにまたショウガの千切りを入れる。具がかぶるくらい鍋に水をひたひたに注いで、酒をどぼどぼと入れ二十分煮る。これでモツから出汁が出て、具材が十分煮えるから、火を止めて味噌で味噌汁よりほんのすこし濃いめに味付けをし、隠し味として醤油少々を加える。味噌は好みのものを吟味したほうがよい。もう一度、五分ほど煮ればできあがり。ちなみに真骨頂は、冷めてからまた火を入れた翌日の味である。
理想型が完成してみると、モツ煮込みをおろそかにしている店なんかよりだいぶ旨くて、来客に出しても評判がよい。これは商売になりそうだった。
そこで思い立った。理想のモツ煮込み一品で店を始めよう。酒は焼酎とウイスキーの角瓶のみ。余計なメニューはもとより、つきだしなんて邪魔くさいものは出さない。客がくるまで本を読んで待つ。かなり本気だった。サラリーマンだった私の目の前に、まったく別の風景が拡がるのを感じた。
立ち寄ったバーで、馴染みのバーテンダーN君に開店計画を得意になって話した。
「なるほど。シンプルな店のほうが通に好まれるものですよ」
「だろ」
「ところで二日目が旨いということは、残っても三日、四日と煮続けられないことになりますね」
「売り切れご免になるようにつくるんだ」
「無理無理。よっぽど繁盛しなかったら、都合よく閉店間際に鍋が空っぽになりません。営業中に売り物がなくなってしまっては商売にならないし、多めにつくって廃棄するしかないです」
「いやな想像が頭をよぎった。鍋の半分以上を捨ててる様子だ」
「ま、そうなるでしょう。どこの店もロスが出ることを想定して、売り物を用意しているんですよ。そこから原価と経費と損益を計算して、手間をどれだけかけ、いくらで売るか割り出すのが商売というものです」
ロスのぶんを考えて、モツ煮込み一杯を千円にするなんてできない。理想のモツ煮込み屋は商売として成り立たない可能性が濃厚なのだった。
こうしてモツ煮込み屋開店計画は頓挫した。よって、理想のモツ煮込みは我が家で細々とおかずとしてつくられるのみとなった。
でも、これはこれで幸せなのだった。
子供のときゴッコ遊びをしたが、あれと同じなのだ。仕事部屋を出た私は、モツを煮ながら
小さな店の主人に
なる。場所は私鉄沿線の商店街の裏通り。毎日、きっかり午後五時に開店する。目の前に客はいないが、焼酎のお湯割りをカウンター越しに出しているつもりになり、「うちではウイスキーは角瓶しか置いてないんです」と心の中で囁く。皿洗いをするときは、閉店後の静まりかえった深夜を思い浮かべる。あとは自転車で家に帰って寝るだけだ、と。
変身願望というか、ひとときまったく別の人生を経験するのだ。商売にしようと思い立ったときのように、目の前の風景ががらりと変わる。
妻の誕生日には鶏の唐揚げをつくり、クリスマスにはグラタンをつくる予定だ。鶏の唐揚げは旅先の場末の中華料理店で食べて旨かったものの再現。グラタンは下町でぶらっと入った洋食屋で出会ったものだ。ぜったい真似してみせるぞ、と家まで味の記憶を持ち帰った。
鶏の唐揚げをつくりながら、私はつげ義春の『やなぎ屋主人』の主人公の妄想に出てくるような、女に欲情して過ちを犯してしまい、さびれた店に婿入りするはめになった駄目男になる。場末の中華料理店の印象が、こんな連想を呼ぶのかもしれない。想像上の設定では、彼はまともに料理ができず、つくるもののほとんどがとても不味い。しかしどうしたわけか、鶏の唐揚げだけは奇跡的に旨いのだ。
下町の洋食屋は見掛けによらず本格的だったから、グラタンをつくるコックはフランス料理を修業したが食うために洋食屋になることを選んだ男という設定だ。店はまあまあ繁盛している。しかし客は誰一人として、彼が誇りに思っているデミグラスソースの真価に気付かない。それでも黙々とグラタンのホワイトソースを木べらで掻き回し続ける。
もちろん妻は、私がこんなことを考えながら料理をしているとは知らない。
料理の楽しみは、いろいろ。幻の厨房に立つのも悪くないものだ。
■ |