翌日、シゲ子はみどりとともに、フィットネスクラブに行った。
「それでは鼻から息を吸って、両手を左右に開きながら、口から大きく息を吐きましょう」
「フッハー、ハーハー、フーフー、ヒーッ!」
「あなた――鉄野さん、でしたっけ? そんなに急いで呼吸しなくてもいいんですよ?」
背のスラッとした女性のインストラクターが、心配そうにシゲ子に声をかけた。
「フーッ……でも先生、このエクササイズをすれば、背中が引き締まるんでしょ?」
「確かにそうなんですけど、背筋の運動はゆっくり行うほうが効果的なんです。だから、身体に無理のないペースでやれば大丈夫ですよ」
(えっ、ゆっくり運動してやせられるものなのかしら!? なんだか心配だわ)
「今度は、腰の上下運動です。あお向けの姿勢になり、両足を上げて、ひざは少し曲げるようにしましょう。そうしたら今度は、ゆっくり腰を浮かせてみてください。その動作を何回かくり返します」
「フッ、フッ、ハッ、ハッ、ハアーッ!」
シゲ子は、両足を上下に激しく振り動かした。
「て、鉄野さん! だからそんなにバタバタしなくたっていいんですって!!」
(シゲ子さん、どうしたのかしら? あれじゃまるで、スポ根ドラマの特訓やってるみたいだわ)
ヨガというより柔道部の準備体操のようだと、みどりは思った。
「あ〜ぁ、やっぱりたまに運動すると疲れるわね。すっかり腰が痛くなっちゃったわ」
「あんなにあわてて動くからよ。ヨガやピラティスは、身体の疲れをほぐすエクササイズでもあるのに、あれじゃ逆効果じゃない」
「だって〜、早くスタイルが良くなりたいんだもん〜」
「スタイルが!? でもどうしてそんな急に……シゲ子さんっ、あなたまさか!」
「な、なによみどりさん。そんなにビックリして!?」
「シゲ子さん、ヘンなこと考えてないわよね。キレイになって、美原クンにアプローチ……なんてことは」
「や、やーね! そんなこと考えてなんかないわよぅ! ただ……」
「ただ!?」
「せめて、『シゲ子マン』からは脱却したいのよ〜! 『シゲ子マン』からはぁ〜!!」
「し、『シゲ子マン』!? なんなのそれ!?」
みどりにとって、シゲ子はますます謎めいた存在になった。
夕暮れ時、めずらしく残業のなかった武は、いつもより早く帰宅した。
「ふーっ、腹減った。シゲ子のやつ、今日こそはまともな夕食用意してるといいんだが……」
「ちょっと、ちょっと、ちょっと〜」
自分の家に入ろうとしたとき、武は、突然呼び止められた。
「あれ、お隣のおばあちゃん。なにかご用ですか?」
「鉄野さぁ〜ん、アンタんとこ、なんか怪しい宗教にでも入ったの〜?」
「えぇ!? そんなことしてませんよ。ヘンなこと言わないでください」
「そ〜う? こないだアンタとこの奥さんがうちに来て、神さまのお告げがどうとかって言ってたから、あたしゃ、て〜っきりそうだと思ってたんだけど〜」
「シゲ子が!?」
「そうよ〜、寝巻き着たまますごい勢いで上がりこんできてねぇ〜。
『テレビ観せろ、早くしないと神さまのお告げが終わる!』
って、居間に入ってきて、そんで〜しばらくしたら、憑き物が落ちたように、スーッキリした顔で出ていっちゃった〜」
(シ、シゲ子が、そんなホラー映画みたいなマネを!?)
武の背中に悪寒が走った。
「鉄野さぁ〜ん、こう言っちゃなんだけどねぇ〜、アンタんとこ、もしかしたら家相が悪いんでないの〜? 一度調べてみてもらったら〜?」
「い、いや大丈夫ですよ。あいつのことですから、ヘンな時間に昼寝して、寝ボケたかなんかしたんでしょう。どうもご迷惑かけてすみませんでした。よく言い聞かせておきますから」
武は、おばあさんに深々と頭を下げ、足早に家の中へ入った。
(まったくシゲ子め、他人の家でなにおかしなことやってんだ! オレまで隣のばあさんに妙な誤解されたじゃないか!!)
「きゃーっ、お母さんっ!! なにちょっとコレぇー!?」
玄関の戸を閉めたとたん、台所のほうから麦恵の大きな悲鳴がした。
「どうしたんだ!?」
「あ、お父さんおかえり。ねー、今日の晩ごはん見てー」
麦恵は、武にごはんの入った茶わんをさし出した。見ると、米といっしょになにかクタクタしたものが入っている。
「おいシゲ子、なんだよこのメシは」
「あぁ、それ? モヤシごはんよ」
「も、モヤシごはん!?」
「そうよ、今日はモヤシが特売だったから、いっぱい買ってきたの! モヤシスープに、モヤシサラダもあるのよ!」
テーブルの上には大量にモヤシの入った料理が、何品も置かれている。
「おいおいモヤシばっかりで、肉や魚が全然ないじゃないか!! なんで今日はいつにも増して貧相なおかずばっかり並んでるんだよ!?」
「う……その、これからはヘルシー志向にしようと思って〜」
「ヘルシー志向!?」
「そうよ、お父さんだってこの前家族の健康を思いやれって言ってたでしょ! 忘れたの!?」
「確かに言ったけども……でも、モヤシごはんはやめてくれよ。またしょぼい食のコラボしやがって」
「なによ、豆ごはんがあるならモヤシごはんがあってもいいじゃない。モヤシは豆の兄弟なんだから! それにモヤシには、ビタミンCや食物繊維が豊富に含まれているのよ! アクロバティックダイエットにも効果的な食材だと思うのよね〜♪」
「お母さん、それ『アクロバティック』じゃなくて『マクロビオティック』だよ……」
麦恵は吹雪のように寒々とした目でシゲ子を見つめた。
「え、そーなの!? やだー、似てるからつい間違えちゃったわー♪」
シゲ子が高価な化粧品を買ったせいで、鉄野家の家計はまさにアクロバティック――火の車と化したことを、武と麦恵は知る由もなかった。
夜も更け、武はそろそろ寝ようと自分の部屋に向かった。
(モヤシメニューの衝撃で、うっかり聞くのを忘れてたが、結局シゲ子は隣の家に何の用事があったんだ? 神のお告げがどうとかって……)
階段を上りながらぼんやり考えていると、シゲ子の部屋からバタンバタンとなにかがひっくり返るような音と、苦しそうな息づかいが聞こえてきた。
「どうしたシゲ子ーっ!?」
武は、驚いて部屋のドアを開けた。するとシゲ子は、何事もなかったかのように、ポカンとベッドの上に座っている。
「やだ、どしたのお父さん。そんなおっきな声出して?」
「お、お前今なにやってたんだ? 身体は、その……なんともないのか!?」
「別に〜元気だけど?」
「そ……そうか」
(よ、よかった。オレはてっきり、お前が地縛霊にとり憑かれたのかと思ったよ……)
武はホッと息をついた。
だが武にとって、本当の恐怖はここから始まったのである。
真夜中、武はトイレに行きたくなり、目を覚ました。一階に下りると、どこからかピチャッ、ピチャッと水音がするのが聞こえた。
(なんだろう、蛇口のひねり忘れか?)
武は台所に行ってみたが、水道の蛇口はかたく締められていた。
(気のせいだったかな)
武は、再びトイレに向かった。すると、またピチャッ、ピチャッという水音が聞こえた。どうやら、洗面所のほうから音がしているようだ。
(やっぱり水でも漏れてるのか?)
武は、洗面所のドアノブに手をかけた。けれども、そのときピチャッ、ピチャッという水音とともに、
「うふっ……うふっ、うふふっ……」
と、女性の不気味な笑い声がしたのである。
「わあっ!」
武は、とっさにドアから離れ、後ずさった。
(な、なんだ! 今の笑い声は!?)
武は、もう一度洗面所のドアを開けようとした。しかし、
「うふふふ……うふ……うふふふふ……」
またしても奇妙な笑い声が聞こえ、恐怖にかられた武は、用を足すのも忘れて自分の部屋に逃げ帰った。
(あ、あの洗面所の笑い声はいったい!? や、やっぱりうちは地縛霊に呪われているのか!?)
それから、武は朝まで眠ることができなかった。
さて、武を恐怖のどん底に陥れた不気味な声の正体はというと――。

「うふっ、うふっ! やっぱり美原クンとおそろいの化粧水は使い心地がいいわね〜。香りもいいし♪ 高い化粧品買ったってバレたら、今度こそ絶対に教室やめさせられるから、夜はお父さんが寝静まったあとにしか使えないのが残念だけど! まったく、あたしがキレイになろうとすると、すーぐジャマしてくるんだから〜。今夜だって、ヨガやってる最中に突然部屋に入ってくるんだから、やんなっちゃうわ!」
草木も眠る丑三つ時に洗面台に向かい、上機嫌で化粧水をパッティングしているシゲ子だった。
シゲ子は、もしかすると地縛霊より厄介なものにとり憑かれてしまっていたのである。
「フフフ……それでよいのだ、『オバサン』よ……。若返りとやらにムダな力を注げば注ぐほど、おぬしの命が危うくなるとも知らないで……せいぜいせわしなく動きまわるがよいわ……」
そんなシゲ子の様子を、闇賢者サギが、水鏡ごしにのぞいていた。
彼のたくらみは、じわじわと進行しつつあったのである。
つづく■
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