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三月二日、午後二時。俺はNHKの601スタジオにいた。
なぜか。どうしてなのか。
いかなる理由でこの俺が、日本放送協会の内奥に潜入しているというのか?
答えは簡単だ。取材に来たのだ。4月から放送になる「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」のラジオドラマ、その収録風景を取材しに来たのだ。
取材。
そう、取材だ。
何もおかしいことはない。俺が601スタジオにいても、なんにも不都合なことはない。
俺は関係者なのだ。胸にはNHKの受付でもらった通行証がぶら下がっている。台本にも原作者として名前が記載されている。ほら、なにも怖じ気づく必要はないのだ。なにも罪悪感を感じる必要はないんだ。
「…………」
しかし、というか、やはり、というか、俺は極度の居心地の悪さを感じていた。
『場違い』という単語が脳裏をよぎる。『邪魔者』という言葉が胸の内に渦巻く。
役者さんに的確な指示を飛ばす収録スタッフの皆さん、その指示に応える役者さん。
皆さん、プロだ。本物のプロフェッショナルなのだ。
それにひきかえ、この俺は、この俺は――
「あぁ」と呻く。
つい五時間前まで徹夜でパソコンゲームをプレイしていたこの俺が、こんな立派なスタジオにいていいわけがない。わざわざ通販で取り寄せた大人気パソコンゲーム「はじめてのおるすばん」を、一週間ほども昼夜の区別なくぶっ続けでプレイしていたこの俺が、日本放送協会などという超巨大組織に関わっていいわけがない。
くそっ! 眩しい! 役者さんが眩しい!
山本陽介役の原田篤さんが、ひたすら格好いい。山本君がこんなに格好いい男だとは知らなかった。なんとなく友達に裏切られた気分だ。そして雪崎絵理役の占部房子さん。どこかで見た顔だと思ったら、朝の連ドラ「ほんまもん」の出演者だ。ヤバイ! テレビに出てる人だ!
住む世界が違う。明らかに違う。
第一線で活躍している皆さんと、いまも第一線でひきこもり生活を続けている俺。あぁ、もうダメだ。
一刻も早くアパートに帰りたい。早くあの薄暗いアパートに帰って、布団に潜って寝てしまいたい。しかし、それはダメだ。今日は取材なんだ。取材と言っても、具体的に何をすればいいのかサッパリ分からないけど、とにかくなんとか取材をするんだ!
「…………」
そういうわけで、俺は覚悟を決めた。
これでも俺は、もうずいぶんと場数を踏んでいる。この前は角川の新年会などにも出席した。社会人らしく、偉い人と名刺交換したこともある。
だから今回も、平静を装って普通に挨拶しよう。収録の合間に一息ついている役者さんに、できる限り社会人らしく、なんとか立派に挨拶をしよう。
――そうさ。平気さ。俺にはできる。俺はもう普通の社会人だ。胸にはNHKの通行証もぶら下がっているんだ、大丈夫なんだ。だから今こそ挨拶するぜ。椅子に座ってお茶などを飲んでいる役者さんに、「どうも、原作の滝本です」と挨拶するぜ!
そうして――ついに俺は普通に挨拶した。
「どうも、原作の滝本です」
しかし、そのときだった。
脇に立つ出版エージェントの村上さんが、こう言った。
「この人、ひきこもりなんですよ」
さらに村上さんはニコニコと笑顔でたたみかけた。
「メディアミックスで知り合った女優さんと結婚するのがこの人の夢なんですよ」
「…………」
役者さん達はどのような反応をすればいいのか判断しかねているようだった。
俺は「ははは」と空虚に笑った。
ひどすぎますよ、村上さん!
*
と、まぁ、そんなこんなで収録は順調に進みました。
村上さんはカメラ小僧のごとく、パチパチと写真を撮っておりました。僕はスタジオの隅のパイプ椅子に腰を下ろし、できる限り気配を殺して収録風景を眺めていました。
「まわしまーす」
「それでは本番、よーい、はいっ!」
「チェーンソー男と美少女戦士が」
「どりゃああ!」
「4ページの絵理のセリフ、もう少し凛々しくお願いします」
「あなたには関係ない。さっさとどっか行きなさい。でないとあなた――」
「死ぬわよ」
「はいっ、オッケーです」
要所要所でセリフの微妙なニュアンスの変更を求めるスタッフと、その指示に完璧に応える役者さん。
そんな収録が何時間もぶっつづけで続くのに、役者さんの声は一向に枯れる気配もありません。のびのびと情感豊かな演技が続きます。これがプロの実力というヤツなのでしょう。
しかし――このようなプロの現場を見てしまうと、小説執筆なんて笑ってしまうぐらいお手軽な作業だなぁ。と、そんなことを考えてしまいます。
小説なんて、字を書くだけです。ノートと鉛筆があればどこでも書けます。
「美少女」と書けば、美少女になります。
なのにラジオドラマは、その美少女を声で表現しなければならない。
「悲しい」のならば、その悲しさを、「嬉しい」のならば、その嬉しさを、すべて声の演技によって表現しなくてはならない。
こりゃあ、本当に大変だ。そう思います。
だけど皆さん、本物のプロでした。その大変な仕事をてきぱきと進めていきます。
わかりづらい原作をラジオドラマ用に上手く再構成した脚本、その脚本を素晴らしい演技で見事に表現する役者さん、そしてスタッフの皆さん――
どこからともなく聞こえてくるような気がする
『ヘボ原作者』『ひきこもり死ね!』『めざわりなんだよ!』『いいから早くアパートに帰れ!』
等々の罵詈雑言に悩まされていた僕でしたが、目の前で繰り広げられる声のドラマに、いつのまにやら没頭していました。
ほとんど人ごとのように、「あぁ、面白いドラマだなぁ」などと笑ってしまったりもしました。
山本と渡辺、そして絵理の、テンポの良いセリフの応酬。さらにはチェーンソー男との戦闘、下宿のお姉さん、学校生活――
目を閉じると情景が浮かんできます。想像力が刺激されます。脳裏にくっきりと映像が立ち現れます。本来、映像とは無縁のメディアでありながらも、確かにここには絵がありました。声がドラマを映すのです。
そうでした。
これがラジオドラマなのでした。
僕も昔は聴いていたのです。いまではもう取り壊されてどこにも存在しない昔の実家の、二階の部屋で、十年前の僕は勉強するフリをして毎晩ラジオを聞いていたのです。
そのラジオドラマの原作を、僕が書けた。それを思うと、何とも言えない気持ちになります。
――これからも頑張って小説を書こう。
そう、改めて決心した次第であります。
あと、いつか本当に、メディアミックスで知り合った女優さんと結婚できたらいいなぁ。
そう改めて考えた次第であります。
*
それはともかく今回の取材は本当に楽しい経験でした。
放送は四月一日の午後十時四十五分からスタートです!
レッツ・リッスン・ラジオドラマ! みんな、ラジオ聴こうぜ! ラジオ万歳!
おわり
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