月1・ノビノビコラム
11月
23日月曜日

About the Author

Mail to the Author

 

 

 はじめに

1990年のある出会いをきっかけに私はコンピューター専門の(それもシェア10%以下のMacという市場にきわめて偏った)ライター/ジャーナリスト業を続けている。この業界には変わった経歴の持ち主が多いが、他人に言わせれば筆者もかなり変わり者の部類に入るらしい。

 この月1回の新連載、「nobi2 Express」では、日頃、パソコンについてしか書く機会がない変わり者が、日々、どんなことを感じ、考えているのかをまったく気ままで無責任に(反対側の立場の徹底的な取材やリサーチもないままに)書き綴るきわめていいかげんなコラムである。

 あるいは日頃、パソコン関連の話しか書けないライターの鬱憤晴らしになるかもしれない。あるいはこの偏った社会の片隅で、偏った食事を摂取し(ほとんど肉ばかり)、偏ったテレビ番組を見て(ほとんど海外ドラマばかり)、偏った時間に睡眠をとる(いちばん多いのは朝8時頃就寝)筆者が、あまりにも社会から隔絶されるあまりに危険な思想に走っていないかを皆様に監視していただく場になるかも知れない。なんとか気に入っていただければおなぐさみ……

 

第1回:紆余曲折

て、まずは筆者が本当に変わり者なのかを判断していただくためにも、ちょっとしたバックグラウンドに触れねばならない。

 生まれ年はインターネットの大本となったARPAnetとほぼ同じ頃、ただし、場所は東京である。オリビア・ニュートンジョンと同じというとちょっと嫌なので、人にはT.S.Eliotと同じ誕生日と言っている。太宰治の「人間失格」を読んで、これは俺のことかと思ったくらい、小さい頃は如何にすれば大人にかわいいと言われるかをよく心得た、祖父母におもちゃを買ってもらう達人だった。幼少の頃の写真を見返すと『ベロ出し』や『首かしげ』といった小憎らしい技を使った写真ばかりが目につく。

 父の仕事の関係で幼少時には英国やドイツ、南米エクアドル等など海外に住むことが多かった。

友達が できた頃には 新環境

 大人たちからは小さい頃からいろんな国に行けて羨ましいと言われ、同朋たちからは「ナマイキ」だとか疎まれる。当然、同世代のアニメや芸能の話にも再放送でしかついていけない。この孤独な心境は商社マンの子供たちにしかわかるまい(実際には子供の頃、海外の名所を回ってもそんなことを覚えているのは親だけで、せいぜい子供が覚えているのは、親に引きずられて嫌な思いをしたという程度だ)。

 孤独のあまりドイツ時代は空想の友達と遊ぶことも多かった(く、暗い……)。 森やライン川の横を1人散歩し、空想の友人と遊ぶと人は哲学的になるのかわからないが、3〜4歳の時の最大の関心事は「人は死んだらどうなるんだろう」だった(ますますもって暗い)。

 4歳の頃には刹那主義に到達した。自分の目に見えているものと人の目に見えているものとは実は別なのかも知れない。今、自分が青と呼んでいる色も人には別の色に見えているのかも知れない。たまたま、両者がこの別の色を同じ「青」という言葉を使って表現しているからつじつまがあっているだけなのかも知れない。そこから「世界そのものすら本当に存在しているかわからない」と考えはじめ、「我思う故に我あり(この世の中で唯一存在しているのは、今、懐疑している自分なのだ)」に達した。

 もしかしたら後付けの記憶なのかも知れないが、ドイツの風土と孤独が筆者をかなり哲学的で小憎らしい幼稚園児にしていたことだけは確かだ(それがわずか数十年でこうもおちゃらけた性格になるのだから人生とはわからないものである)。

 こんなこともあった。ドイツで通っていた幼稚園で初めて白人と黄色人種の違いを知った。私はどちらかというと色白の方なので、そんなに肌の色の違いを意識したことはなかったのだが、あまりのショックに私は家に帰るやいなや、

洗濯機に両手をつっこんだ

 のだ(これまた暗い思い出である)。

 話が暗い方向に進んだので、ちょっと方向転換しよう。本連載のタイトルにもあるNobiはこのドイツ時代についたあだ名だ。家族や親しい友人は今でも私をこう呼んでいる(Nobiはれっきとしたドイツ人名で、そのせいか私のメールアドレスにはよくドイツから間違いメールが送られてくる)。小さい頃は信行とNobiのどちらが本名か自分でもわからない時期があり、一時は危うくパスポートに「Nobi」とサインするところだった。

 帰国後、日本では普通の(日本人)幼稚園にも通ったが、なぜか途中からドイツ人幼稚園に編入した。せっかく日本に帰ってきたというのに、ドイツに居た時のようにとんでもない早起きを強いられスクールバスに乗ったのは今でも覚えている(今はどうか知らないが、25年ほど前のドイツの幼稚園、小学校はとにかく朝が早い。そして子供たちは皆、夜6時になると毎回同じストーリーの小人のアニメを見せられて7時には寝かされてしまうのだ)。

 小学校は普通に日本の公立小学校に入学した。朝、「ミクロイドS」の再放送を見ながらコンフレークを食べていると、同級生のみっちゃんとそのお兄さんが迎えに来る。いつも「ミクロイドS」の結末が見たいがために2人に遅刻の巻き添えをさせていたことは今でも悪く思っている。

 日本の小学校に通って半年後にはエクアドルに引っ越した。といっても、首都のキト(高山都市)ではなく、如何にも南米といった雰囲気の漂うグアヤキルという都市だ。南米でもブラジルやパラグアイなどでは結構日本人の移民が多いが、なんといってもエクアドルで、しかもグアヤキルである。

 領事館の記録では当時、そこに住んでいた日本人は家の家族もあわせてたった2世帯。もっとも、エクアドルでも知識階級の間では日本人に親しみを感じている人も少なくはなかった。エクアドルでの最初の数カ月はホテル住まいだったのだが、なんとホテルのすぐ向かいには日本人の名前がついた通りがあったのだ。野口英世通りである。

 黄熱病と戦って南米で命を落とした日本の英雄の名前を目の当たりにして弱冠勇気づけられた子供がそこにいた。

 エクアドルではドイツ人学校に通った。南米にはコレヒオ・アレマンというドイツ人学校が多く、別にドイツ語だけでなくスペイン語の教育も行っている。国語の時間だけドイツ人と現地人に分かれて、それぞれドイツ語/スペイン語を学ぶ。ドイツ語は話せたが、読み書きは遅れていたので小学校1年をもう1年やることになった(その後、日本でいきなり小学校3年生に編入したので、私は小学校2年生というモノを経験したことがない)。

 学校では『Chino(中国人)、Chino』といじめられる毎日が続いた。なんといっても2世帯しかいない日本人について知る小学生はなかなかいない。そうでなくてもスペイン語圏ではアジア人は皆一緒くたで「Chino」なのだが、こちらも相手のそんな事情はわからないのでとにかく一人で「No Soy Chino(ノー・ソイ・チノ。中国人じゃないやい)」と応戦する。

 それから数十年後、この経験を生かし(!?)Media Direct誌で野添千納(ノーソイチノ)というペンネームでマルチメディア黎明時代の開拓者たち(「スペースシップワーロック」のマイク・サエンツ、他数名)をインタビューしたことを知るのは業界の中でもかなりの『通』であろう(!?)。

 だが、日本の子供向け番組万々歳である。なぜか担任の娘に超モテモテだった(だが、意中の人は別にいた)ことを除いてあまり友達のいない筆者が、ある事件をきっかけにクラスのヒーローになった。ある朝、黒板の前でクラスメートたちが何やら真剣な面もちで議論をしている。よく耳を傾けると「ウルトラマン」がどうとかこうとかと話しているのである。

 当時のエクアドルではテレビが見れるか否かは運次第、住んでいる場所と家を建てたときのアンテナ技師の腕前一つで決まる。家ではどうにも映りが悪くてほとんど見えなかったが、テレビが見れる友人たちの家では当時、ウルトラマンがホットな話題だったようだ。

 聞くところによると、ちゃんと決まった放送時間もなく、放映されるエピソードもバラバラ。ある放送でウルトラマンが流れると、次の放送ではウルトラマンエースだか、タロウだかが流れるという悲惨な状況だったようだ。

 そこで、それから1週間近くをかけて筆者が毎朝、ウルトラファミリーの人間関係について講座を開くことになったのだ。「このツノが生えているのがタロウ。それに似ているのがウルトラの父。ツノみたいなのが下に垂れ下がっているのがウルトラの母。こちらでは放送されていないが、実はタロウには弟分のレオもいる。」こんな講義で一気に筆者はクラスの人気者になった。

 他にいくつかの日本製アニメ番組に関しても講義を行った。日本の子供向け番組がこんな昔の時代から世界中で放映されているにもかかわらず、実は結構いいかげんな契約を勝手に結ばれて著作権を無視されまくって外貨獲得にあまり貢献できていなかったことを知るのはそれから数十年後の話である(そういえば、エクアドルから帰国する途中でよったハワイでは、ホテルで一日中「仮面ライダー」を見ていた記憶がある)

 友人はできたが、望郷の思いは募った。毎月送られてくる学研の「科学」と「学習」の付録が毎号、現地の税関に盗みとられると、望郷の思いはますますもって募った。結局、日本での教育を受けた方がいいという両親の判断もあって、私だけ先に帰され、親戚の家にあずけられることになった。

 そこで筆者を待っていたのは、エクアドルでもそれほど強く感じることがなかったカルチャーショックである。『Chino』といじめられる日々(クラスメートは仲間につけたが、スクールバスでは相変わらずイジメが続いていた)からやっと解放された筆者だが、日本で公立小学校に編入すると、今度は、

『外人』といっていじめられる日々

 が待っていた。

 性格が曲がるわけである……

 以来、大学に行くまでドイツ語もスペイン語も一切使わず、気がついたときには両言語とも完全に忘れさっていた。ドイツ人やエクアドル人の友達との会話の記憶もいつのまにか吹き替えになっているのだ。

(といっても結局は野球だなんだかんだを通して、この時のクラスメートとは1年半がかりでかなり仲良くなった。今でこそ、おしゃれな印象のある玉○高○屋だが、私には多摩川沿いで野球をした後、汚いグローブとバットをぶら下げて地下食品売場で試食しまくった思い出の方が強い。もっとも、この小学校もクラスメートたちと仲良くなった頃には母が帰国して、鎌倉の市立小学校に転校し、そこからさらに、思い出多き成城の小中学校へ通うことになるのだが、これについては機会があれば別に書こう)。

 高校は都内の私立進学校に通った。有名大学の進学だけに情熱を燃やす学校で、授業が終わると予備校に行くことが半ば義務づけられていた。おかげでこちらは灰色の青春である。友達もできたし、当時にくかった先生たちも今では懐かしき恩人たちだが、この高校時代と後のアメリカでの経験は、私の「日本の教育」観に強い影響を与えたことは間違いない。

 この学校では受験シーズンが終わると、全生徒(含む浪人)の進学先を長い廊下一面に張り出すのだが、歴史ある有名国立・私立大に混じって私と私の親友の名前だけ誰も聞いたことのないようなカタカナ名の横に書かれていた。親友が行ったのは都内のデザイン関係の専門学校で、私が行ったのは米国のテキサス州の某州立大学だ(自慢できる話といったらジャーナリズムのクラスでカール・ルイスの妹とクラスメートだったことくらいか?)。

 そんなこんなで日本から出たり入ったりと、長い紆余曲折をたどりながら変な人生を送ってきた。

 ついつい、感傷に浸って前置きが長くなってしまった。第1回目の今回はこんな過去を持つ筆者が考える「日本の消費者」について書こうと思っていたが、どうも、これだけ書いた後ではばつが悪い。ということで、約束とは違うけれど、次回、仕切り直しということで許してもらえるでしょうか?>boiledeggs殿。 

 

 
 
Copyright 1998 by Nobi Hayashi, Boiled Eggs Ltd. All rights reserved.