アメリカのおいしい生活
2月
3日月曜日

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  #1  バスケット下げて
     ご近所さんがやってくる

 

 
 

 ニュージャージーからポートランド・オレゴンへの移動は、いちおうつつがなく済んだ。引越し直前に、新たな赴任地での仕事が急に立て込んだ夫が先にオレゴンに飛んでしまったので、私ひとりで引越しを取り仕切る羽目になった。段ボール箱の山と共に残されたときには、「妻を置いて先に行っちゃうかなあ」と途方に暮れたのだが、やってみれば案外なんとかなるものである(もちろん業者におんぶにだっこだったけれど)。
 今回の引越しでは、我が家のネコ、花子の移動がいちばんの難関であった。なにしろ飛行機に乗るのが初めてなうえに、六時間ものフライトである。獣医に連れていくときに車の中で発する「アーオン、アーオン」という情けない鳴き声を、飛行機に乗っている間じゅう出されたら困るなあと思っていた。が、実際には緊張のせいかうんともすんともいわないものだから、逆に「生きてる?」と不安になって座席の下に置いたネコキャリアーの中を何度も覗き込んだほどだった。
 フライトのちょうど中ほどで客室にただならぬ臭気が立ち込めたときには、花子がついにおもらししたかと目の前が真っ暗になった。隣の乗客の視線が突き刺さってくるようだった。しかし、実は四列くらい前の席の若い夫婦が、赤ちゃんのおしめを取り替えていたのであった。ところ構わずにウン○してしまう赤ちゃんにひきかえ、花子はやっぱり場所柄をわきまえてるんだな、さすが、と感心したが、本当のところはガチガチに緊張していて排泄どころではなかったのだろう。花子は今では新しい家にすっかり馴染んで、まるでずっと前からここに住んでる、みたいな顔をしている。ほんの二週間ほど前の移動のときにはネコキャリアーの中で顔をこわばらせていたくせに、まったく現金なヤツである。
 そんなこんなで私たちが移ってきたポートランドは、人口五十三万人ほどの街。周辺部まで含めると百七十万人だそうだが、八百万人のニューヨークに比べるとずいぶん小さい。これでもいちおう(というのも失礼だが)、アメリカ北西部ではシアトルに次いで大きな都市だ。これからはタイトルも新たに、オレゴン州ポートランドでの暮らしについて書いてみようと思うのである。
 それにしても、聞いてはいたが、ポートランドは雨が多い。昨日も雨、今日も雨、向こう五日間の予報も雨。ついさっきボイラーを直しに来た業者が、これでも今年の冬はドライなんだ、と言ったので思わず、「これがドライ!?」と叫んでしまった。すると、

「大丈夫、五月にはやむから」

 だって。そんなに先までこういう調子の天気が続くらしい。暗くてじめじめ、日照時間の少ない天気に気が滅入る人が多いとかで、そういう人が日光代わりに「あたる」ためのライトというかランプというか、そういうものが大真面目で売られているそうである。
 もうひとつ、話には聞いてはいたが、オレゴニアンたちは本当にいい人ばかりだ。まだ家具も着いていない先週のある日の夜七時ごろ、夫の帰宅を待ちながらガランとした家でひとりぽつねんとラップトップコンピューターに向かってフリーセルをしていた。すると、ピンポーンとドアのチャイムが鳴った。
 だれかしらと思いつつ出てみると、玄関の外にはコート姿の見知らぬ(そりゃそうだ、引っ越してきたばっかりなんだから)中年の男女が立っていた。雨がしょぼしょぼと降る晩である。こんな時間にいったい何の用だろう。一瞬、面倒くさいことになりそうだな、居留守を使えばよかったと思ったが、玄関ドアのわきのガラスから私の姿が外に見えてしまったはずだからもう遅い。
 おそるおそるドアを開けると、戸の近くに立っていたブロンドのおかっぱの女性の顔がぱあっと明るくなり、そして
「Welcome to our neighborhood!」
 と威勢良く言いながら、手にしていた籐製のカゴを私に差し出したのであった。
「あなた、引っ越してきたばっかりよね。挨拶したくて来たのよ。私はケリー、そしてこちらが夫のアラン。三軒先に住んでるの」
 彼女の右後ろに立っていた男性が「ハーイ」と手を挙げた。
「ミカンが少しと、それからクッキーを焼いたのでそれも少し。それから、クランベリービネガー。これもホームメイドよ。よかったら食べてみてね」
 彼女は人のよさそうな笑顔で、カゴの中に何が入っているのかを教えてくれた。私はなにがなんだかよくわからず、自己紹介をするのが精一杯であった。
「なにか必要なものがあったら言ってね。わからないことなんかあったときにも、遠慮なく声をかけて。いつでもよ」
 アランが適当なところで切り上げて、ふたりは雨の中を帰って行った。彼がうながさなければケリーは、「お会いできてうれしいわ。おやすみなさい、またね。いつでも電話して、遠慮なんかしちゃダメよ……」と、際限なく続きそうな勢いであった。
 これが

噂に聞くウェルカムバスケット

か、とキッチンのカウンターにカゴを置きながら思った。紙皿に載ったお手製オートミールレーズンクッキーは、いかにもアメリカンなしっとりタイプ。ピンク色がきれいなビネガーには、瓶にマジックで1/13と、作った日付が記されていた。
 会ったばかりのケリーのいい人ぶりに感激しつつも、なんかすごいところに引っ越してきちゃったなあ、と思った。ニュージャージーでは三軒の家に住んだが、ウェルカムバスケットなどいっぺんももらったことがなかった。一度だけ、隣に移ってきた人の引越しトラックがウチのガレージを長時間ふさいだことがあり、「ご迷惑をかけました」という意味合いのバスケットをもらったことはあった。が、それも、出来合いのお菓子が詰め合わされたギフトショップ製のバスケットが、玄関先にぽんと置かれていただけだったのだ。
 ケリーのバスケットには、くるくると丸められ、紫色のリボンでくくられたご近所リストも入っていた。この界隈の住人の連絡先が十六軒分も記されているのには驚いたが、これがそんじょそこらの緊急連絡番号簿でないことにもたまげた。なにしろ、コンピューターできっちり作られたリストには、それぞれの家の住人(子供含む)の名前と電話番号ばかりか、職業、仕事先の電話番号、携帯電話の番号、おまけにEメールのアドレスまで書かれているのだ。家族や近所の仲のよさを表わすのにclose-knitという形容詞があるのだが、こういうご近所のことをいうのか、と思った。これまで滅多に使ったことのない言葉が、急に現実味を帯びた。
 それから数日後、引越しトラックが到着した日に、大きな眼鏡をかけたおばあさんが桜草の小さな鉢植えが三つ入ったバスケットを持ってやってきた。さらにその数日後には、また別のカップルが、お手製のブラウニーを持って玄関に現われた。
 なんだか、みんなに寄ってたかって歓迎されている感じがして、うれしいけれどちょっと空恐ろしい。この調子で、近隣の人々がウェルカムバスケット片手にわんさか押し寄せて来たらどうしよう。郵便受けで顔を合わせてもろくに挨拶しない、などという人もいたニュージャージーのクールなネイバーたちが、恋しいような気さえする。
 週末、夫と家の周りを散歩していたら、向こうから歩いてきた大柄の女性が、「新しく引っ越してきた人?」と話しかけてきた。そうなんです、よろしく、というようなことを言ったところ、
「ニュージャージーから移ってきたんでしょ?」
 どうやら私たちの情報がclose-knitな近所にすでにぐるぐる回っているようだ。きゃー、なんか怖い。ニュージャージーでは、隣の人の名前もろくに知らなかったのになあ。本当に大変なところに引っ越してきてしまったようだ。これからいったいどうなるのだろう。オレゴンのスーパーフレンドリーなご近所さんたちに圧倒されて家に引きこもってしまうか、あるいは、仲間に入れてもらおうとがんばって、やたらと人付き合いよく、愛想のいい人に生まれ変わるか。どうやらこのどちらかしか打つ手はなさそうだ。

 

 

 
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S・キング風(?)のご近所。
Photo: (c) Yoko Oishi
 
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