アメリカのおいしい生活
9月
3日月曜日

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  #104 サーカスの葛藤
 
 

 サーカスを見に行った。去年に続き、二度めである。
 同じサーカス団の公演だから内容は去年とだいたい同じなのかとたかをくくっていたら、まるで違っていた。リングリングブラザースのサーカスには、赤、青、金の三パターンがあるのだそうだ。去年ポートランドに来たのは、青バージョン。今年は赤バージョンが来たのであった。
 ショーが、アメリカ国歌で始まったのには驚いた。デンゼル・ワシントンみたいな団長が出てくるや、「私たちはアメリカの兵士たちをサポートします」と言って、立ち上がった観客たちと共に、例の「星条旗」を歌い始めたのだ。その団長自身も十二年ほど軍隊にいた経験があると言っていたから、そういうわけで国歌でのスタートか、といちおう納得してみたが、やはり違和感はつきまとう。いまだにヤンキースタジアムでの試合で、七回の表と裏のあいだにGod Bless Americaを歌うのも、実はこっそり「勘弁してよ」と思っているのだが、思えば、去年行ったロデオの会場でもやはり国歌を会場全員で歌っていた。クラシックのコンサートを始めるまえに国歌というのもあった。どうやら最近のアメリカでは、ちょっと大きな会場に人が集まると、

とりあえず国歌

(あるいは愛国心を盛りたてる歌)を歌いたくなるらしい。
 さて、肝心のサーカス。今年は、綱渡りに心を奪われた。
 綱渡りというとなんとなく、長い棒を両手で持ってゆらゆらとバランスを取りながら、ゆっくりゆっくり綱の上を進んでいく図を思い浮かべていたのだが、実際には、もっと躍動感にあふれ、スピーディーであった。
 床から二十五フィート(七・五メートル)のところに張られた綱の上を、ふたりの小柄な男たちがちょこちょこと歩く。端から端まで十五メートルくらいだろうか。綱は二本平行して張られていて、その上を男たちが熱い石の上でも歩くみたいに素早く行ったり来たりするのだ。足元は、地下足袋みたいな靴。
 私は、高いところが苦手である。彼らが頭上の高いところをひょこひょこ歩くのを見ているだけで、お尻のあたりがむずむずしてくる。娘が通う体操教室で、インストラクターが「平均台を上手に歩くには腹筋を使うんです。お腹の筋肉を引き締めて歩くの」と言っていたのをふと思い出す。ピッタリしたTシャツを着た彼らのお腹は、筋肉が割れに割れていた。
 そのうち、彼らは踊ったり飛んだりし始めた。綱の上で、スキーヤーみたいに足の向きを小刻みに変えながら飛んでみせるのだ。思わず彼らのほうに向かって手を差し伸べそうになる。私が手を出したところで彼らが落ちたときにを支えられるわけではないし、だいたい下に安全のためのネットも張ってあるのだ。そう頭でわかっていても、高所恐怖症の私はいてもたってもいられないのである。
 跳ね回るのが終わると、彼らは今度は一輪車に乗り始めた。そのあと椅子を置いて座ったかと思ったら、固めの布製と見られる大きなバケツみたいなものを両足それぞれに履いて大股で歩いて見せた。何度もいうが、高いところに張られた細い綱の上で、である。
 とても人間業とは思えないようなパフォーマンスに感嘆し、つつがなく終わるようにと祈りつつ、彼らが足を踏み外すことを、心のどこかでほんの少しだけ期待してもいる自分に気づく。「台風接近」というニュースに、なぜか心が躍ってしまう不謹慎さに似ている。
 去年見た青バージョンでは、金属製の網でできた球のなかをバイクが何台もぐるぐる走り回るパフォーマンスに度肝を抜かれたものだ。面白いもので、サーカスのことを話題にすると、サーカスを見たことのある人はかなりの割合で真っ先にこのバイクのことを話す。よほどインパクトが強いパフォーマンスなのであろう。実際私も、子供のころに見たサーカスでいちばん印象に残っているのがこのバイクであった。
 三十年以上まえに見たサーカスの記憶のなかでは、球のなかをブーン、ブーンと走っていたバイクは三台くらいで、それでも相当ビックリしたものだったが、去年のそれは、一台から二台、二台から四台……と増えていき、最終的には八台のバイクが球のなかをぐるぐるしていた。ちょっとでもハンドル操作やスピードの加減を間違えたら、大惨事である。その惨事が起こらないことを祈りつつ、でもちょっと見てみたいような……なんとも複雑な思いでバイクが走り回る球を見つめていたのであった。
 思えば、サーカス自体、複雑な思いなくしては見られないイベントである。
 今回、サーカス会場の入り口手前で、なにやらビラを配っている人々がいた。
「ご参考まで」
 そう言って渡されたビラは、スーパーのレジでもらう細長いレシートのような形であった。縮小コピーしたらしい細かい印刷文字には、ところどころ黄緑色の蛍光マーカーで線が引いてある。
「リングリングブラザース、ゾウの虐待容疑で裁判に」
 そんな見出しが、目に飛び込んできた。
 ほかにも、会場の入り口周辺には、「リングリングはゾウに乱暴している」という立て看板を持った人々が立っていたり、マイクを使ってサーカスを糾弾する演説をする人がいたり。そんななかを会場に向かって歩いていると、一抹の罪悪感を抱かざるを得ない。
 実際、トラが猛獣使いに歯を剥きながらも二本足でちょんちょんとジャンプしたり、頭に飾りをつけたゾウが前足を上げたりしているのを見ると、「すごいなあ」と感嘆する一方で、見てはいけないものを見ている感は否めない。本来なら、森や草原で自由に暮らしているはずの生き物なのである。トラなどは夜行性のはずなのに、午後三時半からのパフォーマンスをこなしているのだ。
 私たちが見ているときには、動物たちは嫌々やっているふうはない。調教師と遊んでいるかのように見える。どうかすると、大勢の観衆に芸を見せるのを誇らしく感じているのではないかとさえ思えてくる(罪悪感を消すために、私がそう思いたいだけかもしれない)。でも、芸を仕込まれるときや練習のときにはどうなのであろうか。言って聞かせてご褒美をやるだけで、果たしてトラやゾウにはわかるのだろうか。
 そんなことを考え出すと、止まらない。動物たちの普段の生活状態はどんなものだろうか。移動のときは? 動物愛護が叫ばれる昨今だから、サーカス側も最善は尽くしているに違いない。それでも、動物たちは檻のなかに長時間いることになるのであろう。本来は、草原を走り回っているはずの動物が、である。
 実のところそういうことは、サーカスに行くまえから――会場の周りでの抗議行動を目にするまでもなく――うすうす頭を過ぎっていた。それでもサーカスに足を運んでしまうのは、子供を喜ばせたいから、である。芸をするゾウやトラを見て、

目を丸くして驚いている子供の顔

が見たいから。皆が皆、同じ事情かどうかは知らないが、少なくとも私はそうだ。
 来年のこの時期にも、おそらくリングリングブラザースのサーカスがポートランドにやってくるだろう。今度はきっと金のバージョンのはずだ。私は、来年もサーカスを見に行くだろうか。いまはちょっとわからない。娘の喜ぶ顔見たさに、またしてもいそいそとチケットを手配してしまいそうな気もする。
 自分の子供が喜びさえすれば、サーカスの動物たちの置かれた状況はどうでもいいのか、と、頭の隅で考える。しかし一方では、子供向けの絵本やビデオが、サーカスは楽しいものだというメッセージをさんざん子供に送っている事実も無視できない。私の娘の場合は、「ダンボ」を見たのがきっかけで、サーカスに興味を持ち始めた。絵本やビデオで、「ほーら、サーカスってこんなに楽しいんだよー」と子供に働きかけておきながら、実際にサーカスが町にやってきたときに、「いや、実はサーカスというのはね……」などと言えるだろうか。言ったところで、果たしてわかってもらえるだろうか。
 サーカスを取り巻く状況を変えるには、子供向けのメディアにおけるサーカスの扱い方も一緒に変えなければいけないだろう、と思う。もちろん、すでに世に出ている絵本のサーカスのページを、敗戦後の日本の教科書みたいに隅で塗るわけにはいかないし、「ダンボ」をかつての「ちびくろさんぼ」のように絶版にしてしまうわけにはいかないのだが。
 世の中の流れからいって、そう遠くない将来には、動物を使ったサーカスは珍しいものになるかもしれない。ゾウやトラが披露する芸に目を輝かせる子供たちの姿を見る機会も少なくなるということだ。それはそれで寂しい気がする。夢がないなあ、と思う。しかし、それが動物たちの犠牲の上に成り立つ夢なのだとしたら、やはりなくなってしかるべき、ということなのかもしれない。

 
 
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