急いで選んだ本に、当たりがあったためしがない。
ラスベガスに向かう飛行機に乗るまえ、空港の本屋に駆け込んだ私は、そう思いながらもなんとか「当たり」を見つけようと焦った。ダウンタウンにある大きな本屋の空港支店には、ベストセラーと思しき本が所狭しと並べられており、その多くに、店員が手書きした「オススメの理由」がついている。
それらのいちいちを読む暇もなく(搭乗時刻ぎりぎりだった)、「きっとここにある本はどれも面白いのだ」と信じることにして、とりあえず手近にあった一冊をレジに持っていってお金を払った。
Willa Cather という人が書いた、My Antonia(Aの上にアクセント)という作品。
隣にあった本ではなく、それを選んだ理由はなんだっただろうか。強いて言えば、青い空と広大な草原の写真を使った表紙? いや、こういうときには、言葉にできるような理由などほとんどない。「どーれーにーしーよーうーかーな」で決めたようなものだ。
飛行機の座席に「はあ、やれやれ」と腰を下ろして、その本を読み始めた。が、ものの五分もしないうちに、
「大失敗」
と思わず声が出た。序文(ほかの作家が寄せているもの)を読んでいたら、この作品が
二十世紀初頭のネブラスカへの移民の話
だとわかったからだ。
重たいなあ、と思った。古典も嫌いではないけれど、古典に向き合うにはそれなりの心の準備が必要なのだ。バケーションに持っていくための読み物は、もっと軽い現代モノがよかったのに。
そういえば、書店員の手書きメモに「クラシック」という文字が躍っていたような、と思い出す。ああ、もっときちんと見ればよかった。
本をひっくり返して値段を眺める。六ドル九十五セント。無駄になったなあ、とため息が出た。座席のポケットに本を突っ込んで、代わりに機内誌を取り出し、ぱらぱらとめくる。こちらも、面白い記事はなし。
子連れのラスベガス旅行ではギャンブルもできず、九時まえに娘を寝かしつけたら、ホテルの部屋でできることといえば、読書だけ。部屋に置かれていたほとんど広告みたいな雑誌もあらかた読んでしまい、もう読むものがない。仕方なく、ネブラスカの移民の本を取り出す。小難しい序文をすっ飛ばして、イントロダクションと書かれた本編から読み始めてみた。
ほんの二ページのイントロダクションを終わった時点で、「おや」と思った。なんだか面白そうなのだ。
そこには、作者が幼馴染みのジムと同じ汽車に乗り合わせたエピソードが書かれている。昔語りに興じるふたりは、共通の友人である「アントニア」というボヘミアからの移民の女の子について思いをめぐらせる。作者自身はアントニアとはすっかり疎遠になってしまっているが、ジムは長い年月を経たあと、アントニアと旧交を温めたところだという。そして、折に触れ、アントニアについて覚えている限りのことを書き留めてみているのだ、と告白する。
作者は「ぜひいつか読ませて」と言い、ジムは「もちろん。書き終わる日があったら」と言って、ふたりは別れる。
そして数カ月後、ジムは書き上がった原稿を持って作者のアパートを訪ねる。
これが、イントロダクション。次のページから始まる本編は、ジムが書いた原稿ということになるのだが、ジムというのは作者が作り出したキャラクターで、もちろんすべては作者の手によるものである。
この時点で、すでに「アントニアってだれ? ジムとはどういう関係?」と知りたくなっている。序文のさわりだけで挫折しなくてよかった、とつくづく思った。
序文は解説だから、フィクションである本編と比べては酷なのだが、たったの二ページで読者の心をつかんで離さない本編に対し、小難しくて人を寄せつけない感がある序文なのであった。まるで、来るものを片っ端から門前で追い払っている鬼婆みたいだ。「だれそれによる序文つき」とわざわざ表紙に書かれているくらいだから高名な作家によるものなのだろうけれど、せめて本編のあとに解説として載せるべきではないかと思った。
というわけで、序文はすっ飛ばして、本編をぐんぐん読む。面白い。ボヘミアからの移民の家族が、ネブラスカの冬に苦しめられる。知的で繊細な父親と、無神経で強欲な母親。働き者だが感情を表さない兄と、十四歳のアントニア、そして知恵遅れの弟とまだ小さな妹。隣の家(といっても、馬車で行き来する距離)に住んでいるジムは、アントニアに英語を教えてやってくれ、と頼まれる。そして、ふたりは生涯を通じての固い友情を築いていくのである。
自然の厳しさと戦いながらも人が人との関わりを大切にしながら心豊かに暮らしていた時代の物語、という意味では、「大草原の小さな家」を思わせる。「私」であるジムを語り部にアントニアについての物語が展開していくところは、ギャツビーについて語るニックを思わせる。終盤、土地に並々ならぬ愛情を抱くアントニアについて読むと、タラの地に執着したスカーレット・オハラを思い出す。
成長してそれぞれの道を歩むようになったときに、アントニアに向かって言うジムの言葉が、いい。
「知ってる? 離れて暮らすようになって、君のことをほかのだれのことよりも考えるようになったんだよ。君が僕の恋人だったらいいのに――いや、妻でもいい。僕の母親でもいい。妹か姉だっていい。男にとって女性がなれる役割ならなんだっていいさ。君は僕の心の一部なんだ。知らないうちに、君が僕の好みをすっかり左右している。君はほんとうに、いまや僕の一部なんだよ」
いまどきの若者がセントラルパークの芝生にでも座ってこんなセリフを言った日には「うわ、くさい」という場面だが、この作品においては、もっとも感動的なシーンである。
くだらない男にだまされて失意の日々を送るアントニアと、これからニューヨークで弁護士として働こうというジム。電話もメールもあるいまならネブラスカとニューヨーク間にはさしたる距離も感じないだろうが、二十世紀初頭に生きる彼らにとっては、もう会えないかもしれない、という場面である。いつでもどこでもだれとでも繋がっていられるいまの時代よりも、人と人との関係は、ずっと濃密であったのだ。
読み終わって、この作品はウィラ・ケイサーのネブラスカ三部作のうちのひとつだと知った。ほかの二作の題名を見て、「あ」と思った。そのうちのひとつを、
まえに読んだことがあった
のだ。いや、読まされた、というべきか。
アメリカに住み始めたときに、コミュニティー・カレッジで外国人向けの英語のクラスを取ったことがあった。もう十五年もまえのことだ。読み、書き、文法、スピーチの四コースを並行して取っていたのだが、学期の半ばごろに、リーディングの課題として、ケイサーのO Pioneers!という本が渡されたのだ。
リーディングの先生はプロフェッサー・ミリーという、ミック・ジャガーにちょっと似た顔立ちの、オールドミスを絵に描いたような女性であった。授業中の私語や始業時間に厳しく、また、アメリカ人がそのへんで普通に使っているような、guyやkidなどのくだけた言葉を使わないように、と私たちにことあるごとに言って聞かせた。
ある日、彼女は私たちに二百ページ以上もあるペーパーバックを配って、「来週までに読んでくること」と言い放ったのだ。
教室じゅう、「こんなに厚い本、そんなにすぐに読めるわけがない」と文句ぶーぶーであった。
が、プロフェッサー・ミリーは、
「普通の大学に行ったら、こんな本を読むのは当たり前のこと。毎週二冊くらいのペースで読まなければならないのです。だから、あなたたちも練習しなければいけません。知らない言葉はどんどん飛ばして読めばいいのです。とにかく、読みなさい」
ぴしゃりと言った。
私たちはひいひい言いながらその本と――ネブラスカの開拓者の話と――格闘し、そして、ほとんどの生徒が期日までに読み終えた。「こんなに厚い本読めない」と思っていたのがなんとか読めたので、私たちは達成感と共に驚きも覚えていたものだ。
外国人向け英語コースを終えて普通の大学の授業を受けるようになったら、本を読む宿題が山のように出た。プロフェッサー・ミリーが言ったとおりなのであった。
そういうわけで、空港で慌てて買った本は、思いがけずに面白かっただけでなく、十五年まえの記憶まで引っ張り出してくれた。じっくり選んで自分好みの本を読むのもいいけれど、たまには、こんなふうに本と出合うのも悪くないな、と思った。
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