九月。学校では新しい年度の始まりだ。
アメリカの学校は、入学式や始業式のような晴れがましいセレモニーもなく唐突に始まる。新学期のために用意した新しいバックパックやランチボックスなどが、多少晴れがましさを演出するかな、という程度である。けじめというか、儀式というか、そういうものが好きな日本人としては少々物足りない。
我が家の娘もこの九月から新しい学校に通い始めた。まだ四歳半だからお遊びみたいなものなのだが、いちおう、新しい学校の新しい年度である。しかし、けじめが……などといっておきながら、ネットでオーダーしたバックパックは学校の始まる日までに届かないし(注文したのが遅すぎたのだ)、ランチボックスはいままで使っていたのがまだまだ使えるから新しいのを買うのはもったいないし、ということで、新学期の初日は、なにも新品のものを持たせずじまいになってしまった。
娘が通い始めた学校は、私立のインディペンデント・スクールである。政府、宗教団体、その他のいかなる団体からも経済的な援助を受けず、独自のカリキュラムを組む学校だ。幼稚園から高校まで続く。
この夏、この学校の幼稚部では、新入生たちがいかにスムーズに入学できるかに心が砕かれた。友だちに、学校に、そして先生に前もって慣れさせておいて、九月の新学期には、混乱なく軟着陸させようという工夫がされたのである。
まずは、「プレイデート」。
「○月△日×時から、学校の校庭に集まって遊びましょう」という催し(ま、ただの遊びの約束)が夏のあいだに四度ほど開かれたのだ。先生は来ず、親と子だけの集まりなのだったが、九月から毎日学校で顔を合わせることになるほかの子供たちと一緒に遊ぶというのは、「学校に慣れる」にはかなり有効である。校庭にある遊具にも慣れて、学校が子供にとって未知の場所ではなくなった。
軟着陸のもうひとつの工夫は、家庭訪問。
日本では当たり前に行われる家庭訪問だが、アメリカではこれまで聞いたことがなかった。この学校では、幼稚部の新入生にのみ行われる。
日本での家庭訪問は、先生は親に話をしに来る。が、この学校の家庭訪問では、
先生が子供を訪ねて
やってきた。
時間通りに我が家に来た先生は、私と娘のふたりに挨拶し、話しかけながら、そのうちにさりげなく私を無視して、娘とふたりだけの世界に入っていった。
子供は問われるがままに先生をおもちゃのある部屋に招き入れ、お気に入りのおもちゃを見せ、お気に入りの遊びをしてみせる。
また、前もって宿題として渡されていた「写真帖」(手帖ほどの大きさのノートに、家族や友だち、ペットなど、子供にとって特別な人やモノの写真を貼っておく)を、ソファに先生と娘が並んで座って、一ページずつ丁寧に見る。
「これはだれ?」
「これはどこへ行ったときの写真?」
などなど、先生が丹念に質問し、娘は嬉々として答えていく。
娘にとってはこの日がほとんど初対面の先生であったが、ゴロニャンというくらいのなつきようであった。それもそのはず、自分の家という最も慣れた環境で、自分に関心を持ってくれる人に、おもちゃや家族、友だち……などなど、自分のことについてたっぷり語ることができるのだ。心地よくないわけがない。四歳児は無条件で、「このひと、すき」となるのである。
というわけで、子供らは無事に新しい学校にソフトランディング成功、という感じであったが、親たちにはまだまだ混乱が残る。
いちばんの混乱は、お弁当である。
細かいことまであれこれうるさいことを言う学校ではないのだが、環境問題には気を配っている。だから、ランチには、「繰り返し使える容器を使用してください」というお達しがあったのだ。
日本人はお弁当といえばお弁当箱に入れるものと相場が決まっているから、いまさらなにを、という感じである。が、アメリカ人はランチといえば、ピーナツバターとグレープジェリーのサンドイッチをジップロックの袋に入れて……というのが普通なのである。
「繰り返し使える容器ってなに? どうしたらいいの?」
と不安そうに話し合っているアメリカ人の母親たちの会話を小耳に挟んだ。
また、お弁当に入れる食べ物のアイデア集のプリントが配られ、おおいに役に立っているのだが、それの隅に、「ハムやソーセージなどは塩分や糖分が多いし、添加物も入っているからできるだけ避けましょう」という一文があり、これには私も参ってしまった。
ソーセージは、お弁当のおかずに困ったときのピンチヒッターとしてとても頼りになるのである。いちおうナチュラルに作られているという触れ込みのものをどっさり買って、小分けにして冷凍庫にしまってあるのだ。「意識の低い親」と思われるのはイヤだが、ソーセージなしでの毎日のお弁当作りはツラい。とりあえず、新学期早々のソーセージはやめておくことにした。
このお弁当のアイデア集のいちばんおしまいには、「手書きのスペシャルメモやイラストは子供にとってうれしいものです」という項目もあった。アメリカ人の親は、お弁当に「Have a good day!」「I love you!」というようなメモを入れて、愛情を表現するものなのだ。
こういうストレートなメッセージというのはいかにも照れくさいので、できたら避けたい。しかし、「冷たい親」と思われるのも心外である。郷に入っては郷に従うしかないのだろうか。これも、ソーセージ同様、しばらく様子を見ることにした。
ところで、新学期最初の日の朝、学校の駐車場わきで「ハンドブック&住所録」というのを配っていた。在校生の各家庭に一冊配られるものだそうで、私もひとつもらってきてぱらぱらと見てみたのだが、驚くべきは、住所録。
全校生徒の名まえと住所はもちろん、保護者の名まえ、住所、電話番号、それにメールアドレスまで載っている。
いまどきの日本では、個人情報がどうの、ということで、クラスの電話連絡網さえ作られないというはなしを聞いたことがあり、それはそれで極端だなと思っていたが、この学校のオープンぶりも驚きである。もちろん、この住所録は取り扱い注意、個人のビジネスや勧誘などに用いないように、と書かれてはいるのだが。
また、住所録を見ていると、両親が別々に暮らしている(あるいは離婚した)とか、同性愛のカップルが育てている、というような家庭の事情がわかってしまったりする。別に隠しておくことではないとは思うが、全校じゅうに知らせなくても……という気もする。
さらに驚いたのは、教師や職員の住所もすっかり載っていること。私が教師だったら、成績やら、ちょっと注意したことなどを逆恨みした生徒が、ウチに来てなにかよからぬことをしたら……などと思うと、生徒やその親たちに自分の家がどこにあるかを知られたくない気がする。自分の家族に危害など加えられたら……とまで考えてしまうのは、映画の見すぎだろうか。
「私たちは、生徒とその保護者たちを全面的に信頼しています」
という意思の表れなのだろうか。自分たちの教育に自信を持っている、ということなのだろうか。
しかしまあ、生徒の側の住所だけが教職員に知られている、というのも不公平な気がするわけで(なにかで逆上した教師が生徒の家に乗り込んで……という可能性だってなくはないのだから)、全校の関係者全員が等しく個人の情報を共有するというのは公平なことなのかもしれない。だれだって自分の住所が公開されているとなれば、多少なりとも
立ち居振る舞いに気をつける
ことにもなるわけだし。どこのだれだか明かさなくてもいいとなると、人は行儀が悪くなるものだ。ネットの世界が荒れるのが、その典型だろう。
日本でも、個人情報がどうの……などと他人を信頼しない方向にばかり向かわずに、せめて学校などの閉じられた社会では、みんなが「どこのだれか」を明かしてみてはどうなのだろうか。
なんだかハナシがあらぬ方向に展開してしまったが、学校の住所録を見ていたら、そんなことを思ったのであった。
■ |