アメリカのおいしい生活
2月
9日月曜日

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  #137 首が回らない
 
 

 ここのところ首と肩の調子が悪く、カイロプラクティックに通っている。レントゲンを撮ったところ、ゆるくS字状にカーブしているはずの首の骨が、まっすぐになってしまっているそうだ。
 原因は不明。この十年の間に車を後ろから当てられたことが二度あって、そのせいかもしれないし、そうではないかもしれない。私は顎を引くクセがあるから、それかもしれない。自分では姿勢がいいと思い込んでいたのだが、実はもう少し顎を前に出したほうがいいらしい。
 週に二度ほどカイロプラクティックに行って、大きなホチキスみたいな道具で首と肩にばちん、ばちん、と衝撃を与えてもらっている。おまけに十五分ほどのマッサージも受けているのだが、一向によくならない。よくならないどころか、いままであまり痛んでいなかった右の肩にも鋭い痛みが走るようになった。
「その医者、評判いいのか?」
 と夫が疑わしげに訊いてくるが、なんとも答えようがない。なぜそのカイロ医のところに行くことにしたかといえば、ウチの医療保険でカバーされているから、という理由に尽きるのだ。
 アメリカには、国民皆保険制度がない。だから、基本的には個人で保険に加入することになる。我が家のように会社勤めの場合には、会社が入っている医療保険に加入する。
 この保険は

managed care(管理型保険)と呼ばれる

ものなのだが、文字通り保険会社にがんじがらめに管理されている。自分が加入した保険プランと契約している医者に行くなら、毎回の診療にはコペイという一律の料金だけ払えばあとはたいてい保険でまかなわれる。が、契約外の医者に行く場合には、患者側の負担が大きくなる(全額自己負担という場合も多い)。
 だから、「ああ、首が痛いからカイロプラクティックに行こうかな」と思ったら、保険会社のウェブサイトに掲載されている契約医の一覧を見て、どの医者に行くか決めることになる。腕がいいと評判の医者の情報などだれかから仕入れても、その医者が自分の加入している保険プログラムの契約外だと、行くのがおおいにためらわれるのである。
 では、契約医に行くぶんにはハッピーでいられるかといえば、もちろんそんなことはない。私の加入している保険では、「カイロプラクティックや鍼などの医療費は年間千五百ドルまで」と上限が決められている。治ろうが治るまいが、千五百ドルまで。それ以上は自分で負担してください、という取り決めだ。ずいぶん乱暴な気がするが、カイロプラクティックまでカバーしているプログラムはそう多くはないようなので、千五百ドルまででも保険で負担してもらえるというのはありがたいことらしい。
 毎回の診療に自分で払うコペイは、ウチの場合、三十ドルだ。保険がきく医者に行っても、毎回三十ドルを自分で負担しなければならないのだ。婦人科や小児科の健診に行っても三十ドルだし、風邪で診てもらっても、三十ドル。これには薬代は含まれない。いまや、風邪ぐらいで医者にかかる人など、この国にはいないだろう。
 というか、いまどきのアメリカでは、風邪の患者を診てくれる医者はいない。電話で予約を取る際に、「風邪ぐらいで来ないで市販の薬を飲んで」と言われてしまう。医療費を極力抑えるよう、保険会社から医者に圧力がかかっているのだ。がんばって医療コストを抑えた医者には、保険会社から奨励金が出るらしい。だから、医者は風邪くらいでは診てくれない。日本に住む母と電話で話すと、「頭が痛いから医者に行った」「風邪ひいて寒気がするからちょっと診てもらって薬もらってきた」などと軽く言うから、驚いてしまうのである。
 私たちはアメリカに住み始めて十五年になるが、最初のころのコペイは十ドルであった。ずっと同じ保険会社の同じプログラムに加入してきたわけではないから単純に比較はできないのだけれど、しかし、十五年で三倍に膨れ上がったわけで、いまや医者に行くにも慎重にならざるを得ない。
 これだけ自己負担分が増えたのだから、月々の保険料は低く抑えられているのかといえば、そんなことはない。少し前の日経新聞の記事によれば、二〇〇〇年から二〇〇七年の間にアメリカの医療保険は約二倍に上昇したそうだ。
 我が家は……と調べてみれば、二〇〇〇四年度の年間保険料が六千五百ドルだったのに対し、〇八年度は一万二千六百ドル。ほんの四年のあいだに二倍近くに跳ね上がっている。自己負担分も月々の保険料も、どちらも急カーブで増えているのである。
 年間に一万二千ドルもかかる医療保険などいっそやめてしまって、医者にかかるたびごとに実費を払ったほうが安いのではないか、と考えたりもする。が、アメリカの医療は高い。友人の娘さんが足を複雑骨折して治療代に二万ドルだか三万ドルだか支払った、ここから保険でどのくらいカバーされるか……というような話を耳にすると、やはり万が一を考えて保険には入っておいたほうがいいのかな、ということになる。保険会社に足元を見られている、といっても大げさではない。
 こんな状況だから、保険料が払えずに無保険になる人が増えている。現在のアメリカでは、六人に一人が医療保険に加入していないのだそうだ。病気になったり、怪我をしたら、働けなくなって収入が途絶えるばかりでなく、膨大な治療費を払えずに路頭に迷うことになる。検査を避けたり、病状が悪化してから病院に行くため、さらに治療費がかさむという悪循環も起きているそうだ。医療費が原因で自己破産に陥るケースが増えており、社会問題になりつつある。
 保険に加入している我が家でも、「医者にかかる」ということは「お金がかかる」ということを意味する。先日、娘が夕飯どきに「お腹が痛い」と言い出したときには、「大丈夫?」と心配しながらも、「この時間ではすでに病院は閉まっているから、救急に連れて行くしかない。救急のコペイはたしか百二十五ドルだったような……」などと、お金のことがまず頭をよぎった。保険に入っていてさえこんなことを考えるのだから、無保険の人にとっては、病気や怪我はいちばんの恐怖に違いない。
 救急で思い出したが、いまどきの日本では

救急車をタクシー代わりに使う

不届き者がいる、と聞いてたまげたことがある。アメリカではそんなことをする人はまずいない。救急車にも膨大なお金がかかるのだから。保険に入っていても自己負担分が大きいと聞いているし、また、保険会社から後ほど、「今回の救急車利用は必要なしと判断されました」とか「利用まえに許可を申請しませんでしたね」などという理由で保険での負担を拒否されるケースもあるそうだ。保険会社は、利用者から高い保険料を取っておきながら、いざというときにはなんだかんだと理屈をつけて、支払いを渋るのだ。
 去年の大統領選で、医療保険問題は争点のひとつであった。オバマ氏は、医療保険を改革し、もっと安価で保険に加入できるよう政府が支援する、と提案した。対する共和党候補のマケイン氏は、討論会で、「医療費として、国民ひとりひとりに年間五千ドルあげます。五千ドルですよ、五千ドル!」というような具合だった。医療費が高いアメリカでは、ひとたび病気になれば五千ドルなどすぐに吹き飛んでしまう。カイロプラクティックには年間千五百ドルまで、という保険会社のポリシー同様、なんとも乱暴で非現実的な政策であった。
 オバマ氏が大統領に当選したのは、もちろん医療保険制度に関する政策だけが理由ではない。が、医療保険の問題は国民の生活の根幹に直接関わることであり、人々の意識も高い。医者や製薬会社、それに保険会社などの利害が複雑に絡み合う医療保険問題にメスを入れてくれるだろうと多くの人が期待しているのである。
 だから、先週、医療改革の責任者に指名されたトム・ダシュル氏が納税漏れ問題で厚生長官就任を辞退したことは、大きな痛手であった。始めの一歩……で、つまずいたようなもので、どうにも幸先が悪いではないか。
 こんな折も折、我が家の医療保険料はこの一月からさらに十パーセント値上げされた、と夫の会社から知らせがあった。いまどき十パーセントの値上げって……! 私の首の痛みが、さらに増したような気がした。

 
 
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