先日、友人と「日本人はよく言葉を略すよねえ」という話になった。
近所にあるワシントンスクエアというショッピングモールは、この界隈の日本人の間では「ワシス」と呼ばれているらしい。トレイダージョーズという安売りスーパーは、「トレジョー」。昔、東海岸に住んでいたころ、ニュージャージーとニューヨークを結ぶジョージ・ワシントン・ブリッジという橋は「ジョーワシ」と呼ばれていたし、ちょっとした幹線道路のキンダーカマック・ロードは、「キンカマ」というちょっとアブない呼び方をされていたものだ。
最近聞いたなかでの傑作は、
「豚フル」
日本から出張してきた人が言っていたのだ。
しかし、いまや例のインフルエンザに「豚」をつけてはいけないらしい。日本では新型インフルエンザと呼ぶようになった。
アメリカでも、徐々にH1N1 fluと呼ばれるようになってきてはいるが、でも新聞ではまだswine fluと書かれたりしている(swineは豚の動物学用語)。
友人のひとりは、薬局の人と話していてswine fluという言葉を使ったら、
「豚はなにも悪くないんだから、タイプAインフルエンザと呼びなさい」
とたしなめられたそうだ。
メキシコで新型インフルエンザが大流行の兆し……というニュースが流れた先月末には、アメリカでもけっこうなニュースになって、ラジオでは一日中その話題で持ちきりだった。「万が一に備え二週間分の水や食料を確保しておくように」などと言っている地方政府関係者もいたりして、やや緊張が走ったものだ。
が、いまや弱毒性のウイルスだということがわかってきて、当初の緊迫感はどこへやら、という感じである。これを書いている時点で、全米では四十四州で二千二百五十四人の新型インフル感染者が確認され、二人が死亡したそうだが、特に大きな問題にはなっていない。オレゴンでは感染者は六十九人。今日の地元紙をざっと見たけれど、これも記事にはなっていなかった。
オレゴン州政府の厚生部門のウェブサイトでは、普通の季節性インフルエンザと同様の予防策を講じるように、と呼びかけている。
咳やくしゃみをするときにはティッシュを使って押さえること(ティッシュが手近になかったら、手のひらではなくて洋服の袖で押さえる)。頻繁に石鹸で手を洗うこと。目、鼻、口をなるべく手で触らないこと、などなど。あまり過剰に反応しないよう、「常識を使ってください」と釘を刺す。
日本ではマスクの着用が有効といわれているようだが、こちらの新聞では「マスクは効果なし。人々の恐怖心をあおるだけだからやめよう」と書かれていた。
一連の新型インフルに関する報道に触れながら、私は「アイツがこれからますます幅を利かせることになるのか」と苦々しい気持ちになっている。アイツというのは、
ハンド・サニタライザー
と呼ばれる除菌ローションのことである。
このローションにはアルコールが入っている。ハンドクリームみたいに両手につけると、除菌して手がキレイになる、という商品だ。
小さな子供を持つ母親のなかには、これを常に携帯している人も多い。子供が外で遊んでいて、ちょっとおやつ、というときにはバッグからボトルを出して、小さな手につけてやっている。
そういう場にいるとウチの娘も面白がって手を出してつけてもらっているから、私もにこやかに「ありがとう」などと言っているが、実は私はこのローションがあまり好きではないのだ。
人工的な匂いがどうにも気に入らない、というのがひとつ。それに、泥で汚れた手にそのローションをつけたところで、真っ黒な手に変わりはない。菌さえいなくなればキレイというわけではなかろう、と思う。おまけに、むやみやたらと菌を殺そうとすると、菌のほうががんばって、ちょっとやそっとじゃ殺されにくい菌に変異するのではないかという気がしてならないのだ。だいたい、私たちは今までこんなものなしで育ってきて、なにも問題がなかったではないか。
屋外ですぐに手を洗えないような状況での除菌ローション使用はやむなしとも思うが、最近は手を洗う代わりに日常的に使われるようになってきている。
先日、屋内ジムでの誕生パーティーに参加したときのこと。滑り台やトランポリンでのプレイタイムが終わって子供らがケーキを食べるという段になったら、係の人が子供らを並ばせて、ローションを次々手につけてやっていた。洗面所がすぐわきにあるのに、である。
私が列から娘を引っぱがして、「水で手を洗おうよ」と洗面所に連れて行ったら、同じように子供に手を洗わせているよその父さんに会った。
「あのローションがどうにもキライでね」
彼は苦笑しながら言った。
「私も。石鹸で洗ったほうが絶対キレイよね」
「まったくだよ」
こんなふうに除菌ローションに嫌悪感を抱くのは、ごく少数のようである。アメリカの学校では、教室で使う備品(文房具やティッシュなど)を年度始めに各家庭から集めることが多いのだが、地域の公立小学校では、その持ち寄りアイテムのリストの中に「除菌ローション 1本」とあるのだそうだ。そして、食事の前など、以前は子供に水で手を洗わせていた場面で、いまや「はい、ローションして」ということになっているらしい。
今回の新型インフルへの対応策として、「石鹸で手を洗うこと」は最も基本的かつ有効なこととしてあちこちで挙げられているが、補足として、「アルコールが入った除菌ローションも同様に有効」という一文が付いていることが多い。
いまや、除菌ローションはあちこちで飛ぶように売れ、品切れ店が相次いでいるそうだ。この新型インフル騒動を機にさらに市民権を得るのかと思うと、不愉快でならないのである。
というわけで、新型インフルエンザに関しては、アメリカではさしたる混乱もなく、すでに話題は下火という感さえある。
日本は以前にSARSも経験しているし、新型インフルにはクールに対応するのかなと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。思わず「ええっ」と驚くような報道がいくつかあった。
いちばん驚いたのは、発熱を訴える患者が病院から診察を断られるケースが相次いだ、というニュースである。都内だけで百件近く、なかには大学病院が断ったケースもあったというから、さらにビックリだ。病気の人が病院から診察を断られたら、いったいどこへ行けばいいというのだ。医療機関としての使命感みたいなものは、もはやないのだろうか。
また、ゴールデンウィークを海外で過ごした人たちに「帰国後三日間は出社しないように」というお達しが会社から出ている、という記事もなかなか興味深かった。
このお達し自体は、「海外に行って感染しているかもしれないから、潜伏期間が過ぎて感染している可能性のないことが確認できてから出社してもらおう」という主旨なわけで、まあわからなくもない。
わからないのは、こういうお達しを出された男性会社員(大手電機メーカー勤務、四十代、管理職)の反応であった。彼は、
「おれの出世は終わった」
と落ち込んだそうなのだ。
なんだ、大げさな、と思ったのだが、続いてFという大手通信関連会社の話を読んで、いや、そう大げさな反応ではないのかも、と思わされた。
このF社でも、海外出張から戻った社員や、休暇で海外に出た社員に自宅待機を指示したそうである。同社の広報によれば、
「F社の社員が感染源となって、世間に広めるようなことがあってはならないと考えた措置」
ということなのだ。
これは聞こえはいいけれど、要するに、
「オラたちの村から流行り病を出してはならねえ」
という村社会的な発想である。
インフルエンザに感染するなどというのは、当たり前だが個人的なことで、しかも不可抗力。いくら予防策を講じたところで、かかるときはかかってしまう。
そんな個人的でしかもどうにも防ぎようもないことが、「村」全体に迷惑をかけることになってしまうというのだから、なんとも鬱陶しい話である。F社の視線は完全に社外にのみ向いており、社員たちには「粗相のないように」という態度である。社員は、組織のプレッシャーを感じずにはいられないだろう。
日本の会社というものが多かれ少なかれどこでもこんな雰囲気なのだとしたら、インフルに感染しているかもしれないから自宅待機を命じられたというだけで「出世は終わった」と思ってしまうのもなんとなく頷けるというものだ。
F社の広報は、「社員の健康が第一ですから」と言えばよかったのに。
ま、こんなことをくどくどと書いている私が新型インフルに感染したら、なんかカッコ悪いなあと思ったりするわけだが。
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