夏休みが始まって十日ほど。娘は楽しそうだが、相手をするこっちはもうすでにへとへとだ。まだ六月も終わっていないというのに、九月上旬の新学期までいったいどうやって乗り切ったらいいのだろう。
夏休みの間、子供に普段学校では出来ないような活動をさせる場として、あるいは働く親たちの子供の預け先として、サマーキャンプと呼ばれるクラスがあちこちで開かれている。たいていは月曜から金曜までの週単位で、半日か全日。開催場所は、地域のレクリエーションセンター、教会、体操教室やアート教室、牧場、博物館などなどさまざまだ。
ウチの娘も、夏休み第一週に、家から十五分ほどのところにある動物園のサマーキャンプに行かせた。朝九時から十二時までの半日プログラム。ゾウの背中に乗ったり、キリンにエサをやったり……というようなことはないらしいが、高校生や大学生と見えるアルバイトの兄さん、姉さんらに連れられて動物園のあちこちを見て回ったり、工作をしたり、本を読んでもらったりとなかなか楽しい時間を過ごしたようである。
朝、子供を預けるときには駐車場が空いているから入り口のそばに停められて楽だが、十二時の迎えの時間には、駐車場は連日ギッシリ。空いている駐車スペースを求めてぐるぐる走り回り、入り口からいちばん遠いところにしか停められない。五分ほど小走りのように歩いて迎えの時間ギリギリに門のところに到着し、係のお姉さんの顔を見るなり思い出したのだ。
「ID忘れた」
子供を引き取るには、写真つきの身分証明書が必要なのである。それをけろりと忘れ、ちょっと子供を連れてくるだけだし、と思って財布の入ったバッグをうっかり車の中に置いてきてしまったのだ。
車を停めたところまで行ってまた戻ってこなくてはいけないのか、とため息が出た。距離が長いだけでなく、けっこうな坂なのだ。
朝、子供を預けたときにも顔を合わせた係のお姉さんに、IDなしで子供を引き取れないですかねと頼んでみたが、
「ごめんなさい。規則なので。車の中にあるなら取ってきてください」
と、すげない。
自分の子供を引き取るのになぜ身分を証明しないといけないのだ! と、坂道を往復しながら憤ったが、しかしながら、冷静になって考えてみれば、そのくらいきちんとしていてもらったほうが安心なのである。誘拐が数多く発生しているアメリカでは、特に。
実際どのくらい多いのかと調べてみたところ、日本では略取・誘拐の件数がだいたい毎年二百から三百なのに対し、アメリカでは、二〇〇七年一年間で、見知らぬ者による誘拐が五一八件。それぞれの国の人口比を考えれば、アメリカでとりわけ誘拐が多いというわけではない。しかし、見知らぬ者ではなく、見知った者、つまり家族による誘拐は、年間二九一九件起きているという。
家族による誘拐? と不思議に思われるかもしれないが、これは、離婚した家庭に起こる。養育権をめぐるバトルに敗れ、自分の子供と暮らせない、あるいは限られた日数しか一緒に過ごせないという状況に陥った親が、子供を連れ去ってしまうのである。
つい先日もポートランドで、養育権を得られなかった母親が元夫を恨み、四歳と七歳の子供たちを連れ出して、真夜中、ダウンタウンを南北に貫く川にかかった橋の上から落とすという事件があったばかりだ。七歳の女の子は助かったが、下の男の子は死んでしまった。
こういうことがあるから、私の娘が行っていた動物園のキャンプでも、子供を引き渡す時の身分照明チェックは入念なのだ。キャンプを申し込んだ時点で、子供を迎えに行く人(子供を渡していい人)の名まえを書き込むことになっている。係の人は、迎えの人からIDを手渡されると、あらかじめ作成されたリストに書かれた名まえと合っているかをいちいち確認するのである。
きっちりしていて安心といえば安心だが、殺伐とした世の中だなあと寂しい気もする。自分の子供を迎えに来たのに身分を証明しなければいけないというのは、自分のお金を銀行から引き出すのになにがしかの手数料を払わなければいけないときのような、なんともいえぬ不条理な感じが漂うのである(ちょっと違うか。ま、なんとなく)。
しかし、裏を返せば、自分が親であることをいちいち証明しなければいけないような
まったくの赤の他人に
自分の子供を預けているというわけで、そう考えるとそれはそれでちょっと薄ら寒い感じだ。キャンプで働くお兄さんやお姉さんの犯罪歴などのチェックも怠りなくされているだろうね、と気になる。
犯罪歴といえば、アメリカにはかなり思い切った法律がある。
通称「ミーガン法」と呼ばれているもので、性犯罪者は刑を終えて社会に出てからも、常に登録して所在を明らかにしておくべし、という法律だ。ミーガンというのは、一九九四年、ニュージャージー州で虐待されて殺された七歳の女の子のこと。犯人は近所に住む性犯罪の前科(性的暴力で二度の逮捕歴)がある男だったが、彼の犯罪歴については周囲の人はだれも知らなかった。
彼の前科さえ知らされていたら、ミーガンは死なずに済んだはず――ということで、この事件をきっかけに、全米で、性犯罪者の登録と情報開示が義務付けられることになったのであった。
ミーガン法の適用は州によって異なるようだ。オレゴン州はどうなってるのかな、と検索してみたところ、すぐに州政府作成の、性犯罪者検索エンジンに行き当たった。試しに、我が家の郵便番号を入れてみたところ、この地域に住む性犯罪者の情報が一件出てきた。
ビックリした。名まえや現住所、身長、体重に犯罪の内容はもちろん、大きな顔写真も載っている。ナンバープレートの番号こそないものの、何色のどんな車に乗っているのかまでもが記されているのだ。
「この人物は、未成年者の集まる場所(公園、学校、ゲームセンター、図書館など)への出入りが禁じられている。アルコールやドラッグ、ポルノ類の所持、またインターネットへのアクセスも禁止。性犯罪者向け更正プログラムへの参加と、保護観察所への報告、また、不定期の尿検査が義務付けられている」
彼を担当する保護監督官の電話番号も掲載されている。
以前、元祖カリスマ主婦のマーサ・スチュアートがインサイダー取引で実刑判決を受けたとき、アメリカは刑を終えて出てきた人に対しては寛容で、セカンドチャンスを与えてやるものだ、という話をあちこちで読んだり聞いたりしたが、性犯罪者に限っては、それは当てはまらないらしい。登録、情報開示の期限は、「一生」と書かれている。
日本でも、小さな子供が性犯罪の犠牲者になるケースが増えているようだ。
三年ほどまえの夏、日本から友人夫婦が子供たちと一緒に遊びに来たことがあった。ダウンタウンの噴水のある公園に連れて行ったところ、子供たちは大喜びで水とたわむれていた。それまではどこに行っても、旦那さんのほうがカメラやビデオを操ることが多かったのに、そのときだけ、
「キミ、行ってきて」
と奥さんを促す。不思議に思って理由を訊くと、
「水着姿の子供たちがたくさんいるところで男が写真やビデオを撮るのは、いまや日本ではご法度なんですよ」
とのこと。
日本でも、そのうちミーガン法のような法律が定められるかもしれない。
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